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変貌する長城
始皇帝の時代に築かれた長城は、現在のようなレンガ造りの立派なモノではなく、版築工法で土を突き固めた土塀でした。城壁の高さも2m前後で、遊牧民が馬で飛び越えられない程度の高さで良かったのです。
しかし、時代が下って行くと長城の高さも幅も増強されてゆき、明の時代には煉瓦が大量生産できるようになった影響から防衛上の拠点だった北京周辺を中心に煉瓦の壁へと改築が進みました。ただ、全てが煉瓦造りではなく表面だけであり内部は秦の時代さながらに、土を突き固めた版築工法を使っています。
こうして、明の時代の長城は高さ平均7.8m、底面の幅は平均6.5m、頂面の幅は5.8mと拡大、頂面は平にして兵士が往来できるようにし、転落防止用の低い壁を設置して排水溝を刻んでいます。ただし、万里の長城の全てが立派というわけではなく建築が困難な場所では、ただ壁がそびえているだけだったり、頂面の通路がない長城もありました。
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中国史ライターkawausoの独り言
いかがでしたか?
誰でも名前だけは聞いた事がある万里の長城ですが、実際には使われていない時期も長かったり、普段は交易ポイントだったり、北方遊牧民以外に対しても建造されていたり、時代によって姿を変えている事が分ったのではないかと思います。
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