万里の長城って役にたったの?建設された後を徹底検証してみた!


 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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変貌する長城

洛陽城

 

始皇帝の時代に築かれた長城は、現在のようなレンガ造りの立派なモノではなく、版築工法(はんちくこうほう)で土を突き固めた土塀(つちかべ)でした。城壁の高さも2m前後で、遊牧民が馬で飛び越えられない程度の高さで良かったのです。

 

しかし、時代が下って行くと長城の高さも幅も増強されてゆき、明の時代には煉瓦が大量生産できるようになった影響から防衛上の拠点だった北京周辺を中心に煉瓦の壁へと改築が進みました。ただ、全てが煉瓦(れんが)造りではなく表面だけであり内部は秦の時代さながらに、土を突き固めた版築工法を使っています。

 

易京城に籠城する公孫瓚

 

こうして、明の時代の長城は高さ平均7.8m、底面の幅は平均6.5m、頂面の幅は5.8mと拡大、頂面は平にして兵士が往来できるようにし、転落防止用の低い壁を設置して排水溝を刻んでいます。ただし、万里の長城の全てが立派というわけではなく建築が困難な場所では、ただ壁がそびえているだけだったり、頂面の通路がない長城もありました。

 

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中国史ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

いかがでしたか?

 

誰でも名前だけは聞いた事がある万里の長城ですが、実際には使われていない時期も長かったり、普段は交易ポイントだったり、北方遊牧民以外に対しても建造されていたり、時代によって姿を変えている事が分ったのではないかと思います。

 

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北宋・南宋

 

 

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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