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司馬越、死す
眼前の敵に怯え、味方すら信じられず、司馬越はどんどん孤立していきます。そんな中で異民族から石勒討伐依頼が出たために、これ幸いと言わんばかりに石勒討伐に出立します。
この間に宮中では司馬越の側近が懐帝「に」暗殺されそうになったり、逆に司馬越の側近らが苟晞の粛清を上表したりととんでもない乱れっぷりを見せました。そうしてついに懐帝は苟晞に司馬越討伐を命じました……が、これを見抜いていた司馬越、司馬の血筋が覚醒したかのように苟晞討伐を……できませんでした。
よりにもよって大敗北、その知らせを聞いた司馬越はそのままショック死。その後、遺体は石勒に見つかってしまい、焼き払われたと言います。そして311年4月、洛陽は漢によって陥落するのでした。
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内輪もめの恐ろしさ
司馬越の戦いの、何が恐ろしいかと言うと殆ど内部での戦いであったことです。本来ならば異民族相手に国家が一丸にならねばならない時に、何よりもその味方であるはずの存在を恐れなければいけなかったこと。
このため折角の劉コンから提案された機会を逃し、その挙句に後から石勒討伐の際には
「この機会を逃してはいけません!」と懐帝に言い放つ始末……だったら劉コンの策に乗っておけば良かったのに……。と、これは歴史を後から見ている我々だから言えることですね。
ともあれ八王の乱という内輪もめが終わったと思ったら、今度は帝そのものと敵対という内輪もめ。八王の乱の勝者は歴史の勝者にはなれなかったということでしょうか。
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三国志ライター センのひとりごと
八王の乱自体が一族でぐだぐだしているのですが、それが終わったと思ったらこの状態。もっと言うなら懐帝も懐帝で司馬越が邪魔なのは分かりますが、対応があからさまで、国家の一大事に協力し合えなかったのも痛い所です。
基盤を固める時間がなかったとフォローもできますが……どこまでも八王の乱が足を引っ張ったのだろうなぁ……
としか言えない西晋の終焉に向けての一歩、本日はこれにて、どぼん!
参考文献:晋書列伝第七宗室 列伝第十 列伝第二十九
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