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良心的かも……?
さて日本では江戸時代に収められていた年貢が、取れ高の半分だったという説があります。それと比べるというのは聊か乱暴ではありますが、だいぶ良心的なものに思えます。
また権力者はこういった資金源で私腹を肥やしているというイメージがありますが、張魯はこれらを利用して民への扶助を行ったり、設備投資をやったりしたことで民衆から支持されていたと言います。収めたとしてもそれが目に見える形で還元されるのであれば、受け入れやすいですね。
実際に曹操に攻め込まれた際に「これらは国(漢王朝)の物」として宝物庫らを焼かなかった一件からも、張魯は悪徳のイメージとは違う印象を受けます。乱世において、民衆に広く受け入れられたという五斗米道。それには張魯が民衆に寄り添った、大平道とはまた違った宗教の在り方を実践したからかもしれませんね。
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東晋時代に反旗を翻がえし同じような道を進んでしまう
では最後に、ちょっと後味を悪くしてみましょうか。
嘗て、大平道は蒼天既に死すと朝廷と戦う道を選びました。しかし殆ど同じ時代に、五斗米道は民衆に受け入れられ、受け入れられているが故に朝廷と争わず、乱世に残った存在でした。
しかし後の世、399年に五斗米道は東晋に反旗を翻します。結果は散々なほどの敗北でした。五斗米道自体は現在も形を変えて残っていますが、それでも一度は反逆者となってしまっていたかと思うと……なんとも、苦い結末ですね。
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三国志ライター センのひとりごと
何となく三国志演義での張魯のイメージからか、どうにも五斗米道=五斗の米を民衆に無理やり納めさせていた……というイメージがありましたが、実際に計算して見るとそうでもない分量だった、しかもその資金は納めた人々に還元もされていた、と思うと、五斗米道のイメージが変わってきました。
これは五斗米道、そして張魯は次代の三国志のプレイアブルキャラクターとなってもおかしくありませんね!
賢く仁愛に富んだカリスマ、そんな張魯なんてどうでしょうか?
そんな新しき三国志沼、本日もどっぷりハマっていきましょう!
どぼん!
参考文献:魏書張魯伝
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