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島流しは丁奉の昔のミスが原因
因みに丁奉の一族が流罪になった経緯ですが、このようなものがあります。嘗て丁奉が穀陽を攻めた時、それを察知した地元住民たちは先に逃亡。このために丁奉は成果を挙げることができず、孫皓の怒りをかったことがありました。
これは丁奉が亡くなる二年前のこと、そして丁奉が亡くなる頃には傲慢になったとも言われ、このため死後に家族がこの一件をわざわざ蒸し返されて追放処分となったのです。
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丁奉が孫皓に処罰されなかった理由
しかしちょっと気になるのが、丁奉は生前は何ら罪に問われることなく、死後に家族が追放処分となりました。後々まで孫皓が憤っていたから追放処分となったのだろう……というには、追放処分だけで済ましているので、孫皓の所業から見ると優しいものです。
また、丁奉の罪とは書きましたが、失態というレベルではあるものの、大敗して軍を失った訳でもないので、そこまで大事にすることでもなかったとはいえ、やはり比較的、抑えめの処分です。
どうして丁奉は、処分されなかったのでしょうか。
丁奉に借りがあったから?
丁奉が功績が大きかったから?
それとも個人的に丁奉が気に入っていたから?
どれもあり得るし、あり得ないことでもあると思います。個人的にこの丁奉を孫皓が逃した理由、読者の皆様も一考下さると幸いです。良ければ三国志談話の一つとしてみて下さいね。
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三国志ライター センのひとりごと
晩年には傲慢となったと言われる丁奉ですが、この頃、既に丁奉以上に年を重ねてきた武将はほとんどいないんですよね。そういう意味では周囲から「年寄りがまたなんか口うるさい」とか、思われていたのかもしれません。若い頃から孫呉を見てきた丁奉。
その最期を見ないまま亡くなったのは、寧ろ幸いだったと思うのですが……どうでしょうかね。
ちゃぷり。
参考文献:呉書丁奉伝 江表伝
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