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始皇帝は何歳で死んだの?
始皇帝は紀元前259年から紀元前210年まで49年生きていました。秦王としては13才で即位し36年も在位しましたが、父である荘襄王が若くして死んだ事もあり、常に寿命に対して不安を持っていて、それが不老不死への強い関心に繋がったようです。
49歳の死は、特別若死にではありませんが、始皇帝は真面目な性格で激務をこなし、また不老不死の薬として猛毒の水銀を飲むなどしていたので、晩年には極度に健康状態が悪化して、寿命を縮めたのではないかとも考えられています。
始皇帝の水銀一気飲みの理由
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秦の始皇帝の王妃は誰?
始皇帝の王妃については全く分かっていません。
13歳で即位した始皇帝には、男女合わせて二十名以上の子供がいて王妃ばかりか側室も大勢いたと考えられますが、王妃の名前も側室の名前も不明です。男子で名前が知られているのは長男の扶蘇と末っ子の胡亥だけで、娘たちの名前は一切不明です。
どうして、王妃や子供たちの名前が残っていないのかというと、始皇帝の死後に2世皇帝になった胡亥の側近、宦官の趙高が胡亥の邪魔になりそうな王子と王女、それに妃を皆殺しにして始皇帝の子孫が絶えてしまった事。
また、秦を滅ぼして咸陽を焼き払った項羽によって膨大な量の行政文書が灰になったからではないかとも考えられます。
秦ってどこの国?
秦は現在の中国、甘粛省張家川回族自治県に最初の拠点が置かれました。ここは西安よりもずっと西のシルクロード寄りの草原地帯で当初秦は農業国ではなく牧畜と農業の国で生計を立てる半農半畜の国家だったようです。
その後、紀元前770年、犬戎族に都の鎬京を落されて洛陽に逃げた周王室を秦の襄公が護衛、その手柄で岐山以西の領地を得て伯爵となりますが、その地はまだ草原でした。
ここでは洛陽に移動した周王室からも遠く不便なので、紀元前762年に汧水と渭水の交わるポイントに都を移し、その後も東に移動を繰り返し、紀元前350年に涇陽(陝西省涇陽県)に遷都し、ここが王都咸陽として発展していく事になります。
六大将軍は史実でも登場?
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中国史ライターkawausoの独り言
秦がなぜ戦国七雄の頂点に立てたかといえば、強力で過酷な法律を制定して国王に権力を集中し、法を守る者には褒美を与え、破る者は誰であれ処罰したからです。
しかし、同時に秦が滅亡したのも、厳しすぎる法を遠慮なく支配した六国で適用して、大勢を処罰し、不満が高まってきた所で、万里の長城や驪山陵の建設など重労働を人民に科してしまったからです。
ようやく五百年の戦乱が終わり、安定した平和な暮らしが出来ると期待した六国の人々は理不尽な秦の法律で罪人とされ、土木工事に駆り出され秦への不満を爆発させたのです。
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