なぜ秦は、戦国七雄の頂点に立つことができたのか?

2022年9月18日


 

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嬴政(始皇帝)

 

キングダムにおける主人公の国である秦。漫画ではやたら弱い事が強調されますが、実際は1国で余裕で2~3国を相手に出来るほど強力な帝国でした。では、そんな秦はどのようにして強くなり戦国七雄の頂点に立ったのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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秦はなぜ強かったのか?

キングダム 戦国七雄地図

 

そもそも、秦はなぜ強かったのでしょうか?

 

元々、秦は中国の辺境にある王国で国力も文化も低い野蛮な国と見られていました。そんな秦が強くなったのはそれまで分散していた権力を国王に集中したからです。

 

権力集中を説いたのは商軮(しょうおう)という外国人で、国王でも逆らう事が出来ない(ほう)という概念を生み出し、法に従う者はどんなに身分が低くても褒美を与え、法に逆らう者は皇太子でも容赦なく処罰しました。

 

行軍する兵士達b(モブ)

 

これにより秦の人々は法を恐れ渋々国王の命令に従うようになります。ところがそれに慣れると人々は積極的に法を守って褒美を得ようとし、戦争でも率先して敵に襲い掛かるようになりました。こうして商軮の死から百年ほどで弱かった秦は中華統一を成し遂げたのです。

 

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秦の歴史は?

赤兎馬のモデルとなった汗血馬

 

始皇帝の祖先は非子(ひし)という人で周王に仕えて馬の生産に従事していました。非子は馬の世話が上手で、馬を太らせ繁殖させたので周王は紀元前900年頃、非子に(えい)という姓を与えて貴族に取り立て辺境にある秦邑(しんゆう)という土地を与えたのが秦の最初です。

 

炎上する城a(モブ)

 

紀元前770年に周が犬戎族に攻め込まれて首都を失った時、秦の襄公(じょうこう)は周を守ってよく戦い、その功績で貴族から諸侯に格上げになり、伯爵の地位を受けます。

 

以後、秦の歴代君主は、西方の異民族と戦いながら勢力を拡大。紀元前4世紀の孝公の時代に諸国から人材を集め、その中にいた商軮が商公の変法により国王に権力を集中して秦を強国へと導いていきました。

 

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秦はなぜ滅びたのか?

些細な罪で人を牢獄に放り込む呂壱(呂壹)

 

そんな最強の国がどうして滅びたのでしょうか?

 

秦が滅亡した理由も、また厳しすぎる法のせいだったのです。

 

始皇帝は六国を滅ぼした後、秦で通用していた法律をそのまま六国に適用しました。当然、六国では秦の法律に慣れていないので大混乱が起こります。特に秦の法律が厳しく、ちょっとした事で厳罰が課される事も六国の人々に不満を与えました。

 

万里の長城

 

それだけなら、そのうち慣れる可能性もありましたが、始皇帝は五百年の戦乱で疲れ果てた六国の人民を酷使して万里の長城を建設し、自分の墓である驪山陵(りざんりょう)の造営や屋根に1万人の人間が座れたとされる巨大宮殿阿房宮(あぼうきゅう)も建設します。

 

始皇帝

 

これでも、中華を統一した始皇帝の恐ろしさに人民は我慢していましたが、始皇帝は中華統一から10年で死去。その時、虐げられた人民の恨みが爆発し中国各地で反乱が相次ぎ、秦は始皇帝の死後、4年で滅亡しました。

 

厳しすぎた秦の法律

始皇帝
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孔門十哲

 

 

秦国の最後は?

陳勝・呉広

 

始皇帝の死後、1年もしない内に始皇帝の墓である驪山陵の人夫引率役だった陳勝と呉広が僅か千人余りの人夫と暴動を起こします。この小さな暴動は瞬く間に広がり、百万人を超える農民反乱に成長、陳勝は張楚(ちょうそおう)を名乗って秦の都、咸陽(かんよう)を落そうと進撃を開始しました。

 

章邯(しょうかん)

 

この時、秦では二世皇帝胡亥を擁立した宦官の趙高(ちょうこう)が自分に批判的な将軍達を次々と殺戮して人材が消えていて、このまま滅亡しそうでしたが、生き残っていた章邯(しょうかん)という名将が驪山陵で働いている罪人を兵士として組織し陳勝の反乱軍を撃破します。

 

劉邦

 

ところが、陳勝の死後、項梁と項羽、それに劉邦のような有能な人材が反乱軍に登場。章邯も項羽に敗れて投降。項羽が戦っている間に、小数の手勢を率いた劉邦が武関を突破して咸陽に到達。3世皇帝子嬰(しえい)は降伏し秦帝国は建国から15年で消滅します。

 

項羽

 

しかし、悲劇は終わりませんでした。劉邦の後からやってきた項羽は子嬰を許さず処刑し、同時に部下に対し略奪を許します。咸陽には殺戮と略奪の嵐が吹き荒れ、700年も継続した秦の帝都、咸陽は焦土と化したのです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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