初平4年(193年)に曹操の父の曹崇は戦乱を避けるために避難していたところ、徐州の長官の陶謙の部下により殺されました。
曹操は父の報復を口実に徐州に攻め入りますが、その隙に部下の陳宮が裏切って呂布を領地の兗州に引き入れます。濮陽で1年以上の激しい戦闘の末に呂布を撃退しますが、曹操にとっては半分敗北・半分勝利となります。
この戦いを「濮陽の戦い」と言います。今回は「濮陽の戦い」の発端について解説します。
※記事中の歴史上の人物のセリフは、現代の人に分かりやすく翻訳しています。
曹操の徐州大虐殺と兗州名士の動揺
初平4年(193年)に徐州に攻め込んだ曹操は行く先々で民を殺します。名目上は父の復讐となっていますが、当時の中国は袁紹と袁術の2人が天下を争っていました。
曹操は袁紹に、陶謙は袁術についたので、この虐殺は天下分け目の戦いの1つでもあります。ところが、この虐殺にびびった人たちがいたのです。それは曹操の領地の兗州の名士。
名士とは当時の知識階級の人たちを指します。兗州で名の通った陳宮や辺譲といった名士は、徐州大虐殺を聞くと「曹操ってヤバイやつだ・・・・・・」と感じちゃいます。
クズ野郎辺譲
そこで兗州の名士は全てアンチ曹操に回ります。その代表的人物が辺譲です。辺譲は博学と弁舌の才能があることで知られており、かつては大将軍の何進(かしん)にも仕えていました。
また、孔融(こうゆう)・王朗(おうろう)といった人物からも高い評価を受けています。読者の皆さんなら予想がつくと思いますが、辺譲は孔融の友人なのでプライドの塊です。
案の定、辺譲は曹操が宦官の子孫であることをネタに徹底的にこき下ろします。
「俺は大将軍に仕えたり、太守にまでなったんだぞ。俺に手を出せるものなら、やってみろ!」
現代にもいますよね、こんなクズ・・・・・・当時の曹操は位も低いし、兗州の長官も緊急で就いたので朝廷からの正式任命ではないので、ここまで馬鹿にされたのです。そして、こういう時は絶対に調子に乗るやつが、1人や2人登場します。曹操と同郷の袁忠(えんちゅう)と桓邵(かんしょう)です。
「辺譲さんが言うのなら俺たちも・・・・・・」と曹操をイジメます。
辺譲殺害事件と呂布の侵入
しかし、いつまでも黙っているほど曹操は大人しくありません。なんと辺譲を殺してしまいます。子分の袁忠と桓邵も逃げますが捕縛されて殺されます。桓邵に至っては命乞いまでしますが、曹操は「そんなことすれば許してもらえると思った?」と言って斬り捨てます。
だが、これは曹操にとって汚点となりました。いくら悪質な連中だったからといって、殺したのは名士ばかり。おかげで兗州の名士の心が曹操から完全にエスケープ。特に陳宮は曹操ではなく別の主を見つけようと画策して、その結果、曹操が陶謙討伐に時間を割いている間に呂布を兗州に入れたのです。
呂布は当時、袁紹と袁術からも見捨てられた流れ者。陳宮が呂布のどの部分に魅力を感じたのか筆者は分かりませんが、呂布が虐殺を行ったという話を聞いたことはないので、曹操よりもマシだと思って入れたと推測されます。
陳宮の裏切りを聞いた曹操は驚き、急いで引き返して1年以上に渡り呂布と戦い、どうにか呂布を撃退します。
三国志ライター 晃の独り言
以上が「濮陽の戦い」の要因の解説でした。曹操はこの戦いの教訓から、意味の無い虐殺や部下の死刑は行っていません。
もちろん、許攸(きょゆう)のように主君と部下の分別がついていないやつは、普通に死刑にしていますが、それは別と思ってください。それにしても、馬鹿にされたから人殺しをするなんて曹操も若かったのですね(笑)
※参考文献
・易中天(著)・鋤柄治郎(訳)『三国志 素顔の英雄たち 上巻』(冨山房インターナショナル 2008年)
・渡邉義浩『図解雑学 三国志』(ナツメ社 2000年)
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