なぜ曹操は官渡の戦いから河北統一まで7年という期間を要したのか?

2022年10月30日


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袁紹に追い詰められる曹操

 

西暦200年に袁紹(えんしょう)曹操(そうそう)が中原の賭けて争った官渡(かんと)の戦いは、前哨戦である白馬の戦いから見ると約8ヶ月。官渡砦の戦いだけでみれば、わずか2ヶ月ほどで決着が付いています。

 

鳥丸族(烏桓族)侵入に頭を悩ます曹操

 

しかし、曹操が袁紹の息子たちを破り、烏桓族(うがんぞく)を討伐して河北を平定したのは207年と7年あまりの時間が経過しています。なぜ曹操は河北統一にここまでの時間がかかったのかを見ていきましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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官渡の戦いの後

鄧禹と兵士

 

曹操は敗走する袁紹を追撃しますが、袁紹が黄河を渡ったため逃してしまいます。ただ、逃げ送れた兵のうち心から屈していないものは生き埋めにされ、8万という兵士が殺されました。加えて冀州(きしゅう)では多くの城が降伏し、袁紹はそれらの平定に奔走します。

 

 

空腹の三国志の兵士(兵糧)

 

曹操は袁紹への追撃を考えますが、頼みとしていた東平郡安民(とうへいぐんあんみん)という地の糧食が少なかったことから断念。

 

反対する荀彧

 

曹操は一度袁紹を諦めて狙いを劉表(りゅうひょう)にしようとしますが、荀彧(じゅんいく)は先に袁紹を討つよう進言しています。

 

 

荀彧

 

 

反乱を平定した袁紹は平丘(現在の封丘県)より渡河して陳留(ちんりゅう)経由で許都(きょと)襲撃を計画。しかし、袁紹の狙いを読んだ荀彧の進言によって曹操は201年4月に北上し、倉亭(そうてい)に駐屯していた袁紹軍を破りました。

 

兵士 朝まで三国志

 

これにより冀州では再び反乱が起き、袁紹は鎮圧へと向かいます。曹操は一度許都に戻りますが、劉備(りゅうび)汝南(じょなん)を攻撃していたために自ら討伐へ向かいました。

 

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袁紹の死と内紛の発生

曹操から逃げ回る劉備

 

劉備は荊州(けいしゅう)の劉表の元へ逃亡したため、曹操は202年の春に再び官渡へ進軍します。

 

亡くなる袁紹

 

同年5月に袁紹は病となり、血を吐いて死去。

 

袁尚と対立する袁譚

 

その際、後継者を決めていなかったことから、長男である袁譚(えんたん)と袁紹が溺愛していた袁尚(えんしょう)を推す派閥間の対立が発生します。

 

後漢書(書類)

 

後漢書(ごかんじょ)の袁紹伝によれば袁尚派の審配(しんぱい)逢紀(ほうき)は袁紹の遺命を偽り、袁尚を後継者としました。

 

逢紀

 

袁譚は不満を懐きながらも車騎将軍(しゃきしょうぐん)を自称し、曹操の動きに備えて前線である黎陽(しゅんよう)に駐屯。袁尚も逢紀を監軍として小規模な援軍を送りますが、袁譚はさらなる増援を要求。袁尚がこれを拒否したために逢紀は殺されます。

 

魏王に就任する曹操

 

202年9月に曹操が北上を始めると、袁尚も自ら兵を率いて袁譚とともに前線で戦いました。

 

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

しかし、9月から翌年の2月までの間に連敗を重ね、黎陽を放棄して撤退。曹操は鄴城(ぎょうじょう)の近くまで追撃し、鄴城の南東にある陰安(いんあん)を落として許都へと帰還しました。

 

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袁譚と袁尚の対立が激化

炎上する城b(モブ)

 

危険が去ると袁尚と袁譚は冀州の領有権を賭けて本格的に争うようになります。曹操はこのタイミングで劉表を討とうと荊州との境にあたる汝南郡西平へ駐屯します。

 

曹操と袁譚

 

しかし、袁尚との戦いに敗れた袁譚が曹操へ救援要請をしたため、曹操は戦わずに西平から撤退。曹操は一切攻撃する素振りを見せない劉表は一度捨て置き、河北を平定することを決めます。

 

悪の正義バットマン風 曹操

 

袁尚は袁譚を追って平原を攻撃していましたが、曹操が攻めてきたことで鄴城へ帰還。204年の正月、曹操は糧道の確保を行っていたため、城に審配と蘇由(そゆう)を残して袁尚は再び平原へ進軍します。

 

行軍する兵士達b(モブ)

 

曹操が兵を進めると守将の蘇由は降伏し、残った審配が城を堅守。4月に曹操は別働隊を率いて周囲の城を次々と落とし、5月には水攻めで審配を苦しめます。

 

敗北し倒れている兵士達a(モブ)

 

7月に袁尚は救援に来ますが、曹操に敗れて中山へと逃亡。城内はすっかり士気が落ち、8月に審配の甥である審栄(しんえい)が東門を開いて兵を引き入れたために鄴城は陥落し、審配も殺されました。

 

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冀州と并州の陥落

高幹(袁紹の甥)

 

曹操が鄴城を落とすと并州(へいしゅう)の刺史であった高幹(こうかん)は降伏し、曹操は9月に冀州牧となります。しかし、その間に袁譚は冀州の東部を攻略。さらに中山に逃亡した袁尚を攻撃して兵を吸収し、曹操に背いたために攻撃を受けます。

 

憤死する麋竺(モブ)

 

205年正月、袁譚は郭図(かくと)とともに殺されました。袁尚は袁煕(えんき)のいる幽州涿郡(ゆうしゅうたくぐん)故安(こあん)へ逃げますが、そこで袁煕の部下であった張南(ちょうなん)焦触(しょうしょく)が反乱を起こしたために烏桓を頼って遼西(りょうせい)へと落ち延びます。

 

張燕

 

4月には黒山賊(こくざんぞく)張燕(ちょうえん)が曹操に降伏しますが、烏桓族が漁陽郡(ぎょようぐん)にある獷平県(こうへいけん)を攻撃。曹操はこれを撃退し、10月に鄴城へ帰還します。

 

傷だらけでも勇敢に戦う楽進

 

それから一度降伏した高幹が反乱を起こしたために楽進(がくしん)李典(りてん)に攻撃をさせます。翌年の正月に自ら高幹討伐に向かい、3ヶ月の包囲戦の末にこれを攻略。高幹は荊州(けいしゅう)へ逃げたものの、捕らえられて殺されています。

 

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KOEIの「三國無双2」をきっかけに三国志にハマる。
それを機に社会科(主に歴史)の成績が向上。 もっと中国史を知ろうと中国語を学ぶために留学するが 後になって現代語と古語が違うことに気づく。


好きな歴史人物:
関羽、斎藤一、アレクサンドロス大王、鄭成功など

何か一言:
最近は正史をもとに当時の文化背景など多角的な面から 考察するのが面白いなと思ってます。 そういった記事で皆様に楽しんでもらえたら幸いです。

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