魏軍のナンバー2として名を馳せながら、やや知名度の低い楽進。実は現代社会にも通じる才能の持ち主でした。ここでは史実をベースに楽進とその死に至るまでを解説していきます。
特技は人材募集
陽平郡衛国(現在の河南省・清豊)で生まれた楽進は小柄な体格でした。肝が座っており、曹操の「帳下吏」として仕えていました。
ある時、曹操は兵力が足りないと感じ、自ら兵を募集していました。今でいうところの企業説明会です。大事を成すには人が必要だったのは古今東西、変わりません。そこで、楽進を「陽平郡」に向かわせ、同じように兵を集めるよう指示しました。
武勇で名を残したいと思っていた楽進は、ここで一念発起します。兵士を1,000人も連れて帰ってくるのです。河内で落ち合った曹操は楽進を「軍假司馬」に任命し、「陥陣都尉」としました。
命をかけて戦う兵を1,000人も集めたのですから、立派なものです。人材不足と言われる現代の日本で1,000人も集められる企業がどこにあるでしょうか。代わりにアーム型ロボットを購入する方が簡単です。
それを西暦190年という時代にやってのけた楽進に曹操も舌を巻いたのでしょう。
軍神・関羽と戦った男
西暦208年。当時、「荊州」は魏軍の領土ではありませんでした。荊州といえば、魏・呉・蜀のどこからも近い場所。曹操が目を付けたのは言うまでもありません。資源は乏しいですが、軍事的に重要な場所だったのです。
そこで曹操は荊州をとる前段階として楽進を北の「襄陽」に駐留させます。北朝鮮のミサイルを警戒するため岩国基地にオスプレイを配備した米軍と似たようなイメージです。これで異変があれば、すぐに荊州を押さえることができます。
西暦209年。楽進は、関羽と蘇非らに攻撃を仕掛けます。死をも恐れぬ楽進は見事に関羽を討伐、ついでに近くで暴れていた山賊まがいの民族を投降させることにも成功。荊州一帯で楽進の名声は高まるのです。
西暦213年、再び関羽と対決します。場所は青泥(現在の湖北省鐘祥)。しばらく、にらみ合いが続きましたが、やがて関羽は尋口まで兵を引きます。すると、文聘が救援に来て、楽進と共に関羽と「尋口」の地でバトルを再開。
この戦いで活躍した文聘は「延寿亭侯」に昇進しています。関羽討伐の偉業が高く評価されたのでしょう。
合肥の戦いでは一致団結
魏軍には多くの武将がいましたが「楽進」、「張遼」、「李典」の三人は相性が悪く、いがみ合っていました。そんなとき合肥に孫権軍が10万の大軍を引き連れて攻め上がってきたのです。孫権にとって合肥は長江流域の未開エリア。なんとしても呉の勢力に加えたかったのです。一方の合肥にいる魏軍はわずかな兵しかいませんでした。仲の悪い三人の武将が一致団結しなくては勝機はありません。
張遼が呂布の配下だった頃、兗州の戦いで李乾や李整を討伐。 李典はこの件をずっと根に持っていました。 「李乾」は李典の叔父、「李整」は従弟に当たります。 親戚の仇が目の前にいるですから、一般感情からすれば協力する気にはなれないでしょう。
それを知っていた曹操は、この二人をうまく使わないといけないと考え、一通の手紙を合肥へと届けさせます。
「もし孫権軍が攻めてきたら、張遼と李典の二人が協力して出陣。楽進は城に留まり、守りに徹すること」と書きました。
こうした大事にあっては個人の恨みを忘れて、協力しなければいけないと説得されたのです。そして、三人は緊密に連携し、見事に孫権軍を打ち破っています。戦のあとに張遼は捕まえた孫権軍の捕虜に訊きました。
「さっきの髭を生やして上背がある短足の男で、馬上から見事に弓を射た奴は誰だ?」
すると捕虜が答えます。
「あれこそ孫権です」
張遼は、たまたま会った楽進にそのエピソードを語りました。
「見かけたときにあいつが孫権だとわかっていたら、追撃して捕まえてやったのに…」
と合肥城内で溜息をついたそうです。
三国志ライター上海くじらの独り言
今まで楽進のことをよく知らなかった読者も少しは身近に感じることができたと思います。また、曹操と早くから知り合っていた楽進は最後に「右将軍」へと昇進。死後の西暦243年には「曹操廟庭」に祀られます
もし、陽平郡で楽進が1,000人もの兵士を集められなかったら、帳下吏で終わっていたかもしれません。人生とは奇妙なものです。
参考資料:
「交通旅遊中国地図冊(中国語版)」湖南地図出版社
乐进 (东汉末年名将)
阳平郡
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