「あんまり泣いていると鬼が来ちゃうよ!」
こんな脅し文句を使っているお母さんを見たことはありませんか?
最近では「泣いていると鬼から電話が来るよ!」
なんてことになってきているようですが…。
実は、その言葉は元々、「泣いていると張遼が来るぞ!」だったのだとか。
そんな泣く子も黙る張遼とはどのような人物だったのでしょうか。
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流れに流される張遼
張遼は元々丁原の配下でした。
丁原は『三国志演義』で、皇帝の位を密かに狙う董卓に対して強く反発。
董卓がそんな目の上のたんこぶ・丁原を暗殺しようとした結果、戦が勃発。
当時、丁原の配下にいた呂布はその武勇で董卓軍を蹴散らします。
そこで董卓は呂布の鼻先に釣糸を垂らします。
釣餌は呂布の親友の李粛。
この口上手な釣餌に見事引っかかった呂布は丁原をあっさり裏切ったのでした。
このとき、呂布は丁原の兵も全て董卓にプレゼント。
その中に張遼はいたのです。
昨日の敵が今日の君主になってしまった張遼。
その不幸は続きます。
王允の策略で仲違いした董卓と呂布。
今度は呂布が怒りに任せて董卓を斬殺します。
こうして張遼の主君は呂布に。
ここまで、自分の意志とは裏腹にコロコロと主君を変えざるを得なかった張遼。
なんとも不憫な彼ですが、ついに運命の主君と出会う日が訪れるのです。
運命の主君との出会い
張遼は元の自分の主君・2人を裏切った呂布にも忠義を尽くす男でした。
曹操との戦で敗れてボロボロのところを助けてくれた劉備を裏切ったりと
相変わらず滅茶苦茶で不義理な呂布。
そんな呂布を主君としていることに張遼も次第に迷いを覚えはじめます。
そんな折、張遼についに転機が訪れます。
呂布が曹操に投降したのです。
呂布は必死になって命乞いをします。
自分を使えば百人力だのなんだの、ペラペラペラペラ。
張遼は情けない呂布を見て、ついにブチ切れてしまいます。
「この匹夫が!
もう死ぬしかないんだ!
一体何をそんなに恐れているんだ!」
そう叫んで、ついでに曹操も罵倒。
曹操も罵倒するあたり、張遼の呂布への忠誠が窺えなくもない…。
その後、首を斬ってくれとこうべを垂れ、首をのばした張遼でしたが、
張遼の人となりを良く知る劉備や関羽が必死でとりなしたことにより、
その命を長らえることになったのでした。
今度は曹操に仕えることになるのですが、この曹操こそ、張遼にとって運命の主君だったのです。
激動の時代を生きた先人たちから学ぶ『ビジネス三国志』
曹操の元でようやく開花した張遼
張遼は曹操の元でメキメキと頭角を現していきました。
特に『三国志演義』での活躍は目覚ましいもの。
関羽と仲が良いということで、戦だけではなく様々な場面で花を持たせられることの多い張遼。
そんな彼が正史、『演義』問わず最も華々しい活躍を見せたのは呉との戦・合肥の戦いでした。
呉人のトラウマ・張遼
どうにも折り合いが悪い李典・楽進と共に合肥に駐屯していた張遼。
3人が醸し出す雰囲気の悪さを悟ってか、なんと呉が10万の軍勢を引き連れて襲ってきたのでした。
ところが、危機を前に張遼・李典・楽進の3人は手を取り合います。
張遼はわずか800人の精鋭を引き連れて出陣。
怒涛の快進撃を見せ、鬼神のごとき勢いで孫権の喉元まで迫ります。
これには孫権も驚いて退却。
「孫権、丘から下りてこい!一騎打ちじゃあ!!」
と叫ぶ張遼。
丘の上から張遼を見下ろしたところ、張遼軍の数が極端に少ないことを知った孫権。
人海戦術で張遼軍を取り囲みます。
ところが、張遼は破竹の勢いで包囲網を次々突破。
敵に囲まれてピーピー泣き喚く味方も助けてまわりながら、孫権軍の中を暴れまわります。
この勢いに腰が引けた孫権軍の兵たちにあえて張遼と当たる者はありません。
半日間衰えも見せずに戦場を駆けまわる張遼を見て、呉軍の士気はすっかり下がってしまいました。
孫権はこれを受けて撤退を決意。
ところが、張遼がそれを許してくれません。
猛烈な勢いで追いかけてくる張遼軍を相手に呉軍も必死で逃げますが、
なんと退路として当てにしていた橋が落とされているではありませんか!
眼前に迫る張遼。
ここで落ちれば、呉もそういう運命だったのだ!
思い切って馬で対岸まで跳んだ孫権。
孫権は命からがら逃げ延びたのでした。
このことがあってからは、呉人は張遼の名前を聞くだけで震え上がる始末。
泣く子も黙る張遼として呉人にトラウマを植え付けたのでした。
勝って兜の緒を締める
呉を見事退却させた張遼に曹操も大満足でしたが、当の張遼はあまり浮かない顔。
誰が孫権かわからなかった張遼は、後で孫権が誰だったかを知り、
「アイツだとわかっていたら、すぐにとっ捕まえてやったのに!」
と惜しがるばかりで、勝利を鼻にかけるようなことはなかったようです。
なんともストイックな張遼。
戦いぶりだけではなく、その人となりも名将と呼ぶのにふさわしい人物です。
※この記事は、はじめての三国志に投稿された記事を再構成したものです。
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