涼州軍閥から身を起こし洛陽を占領して実質的に後漢を滅ぼした
暴虐の王、董卓(とうたく)、しかし、彼が権力を握る過程では、
彼の弟が密接に関係していた事は、あまり知られていません。
そこで今回は、董卓軍の洛陽入場を用意し、その後の独裁をサポートした
董卓の弟の董旻(とうびん)を紹介しようと思います。
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董卓軍の上洛を準備した弟 董旻
董旻は字を叔穎(しゅくえい)といい董卓の弟です。
董卓が次男で董旻は三男にあたります。長男は董擢という名前でした。
さて、異民族相手に20年も涼州に張り付いていた董卓と違い
董旻は洛陽で何進(かしん)の部下として仕えていました。
あるいは、董卓を洛陽に呼び込んで何皇太后に圧力を掛けようという
何進のアイデアも、董旻が吹きこんだ事かも知れません。
さて、上司である何進が、宦官十常侍に逆襲されて殺されると、
宦官の皆殺しに参加していきます。
同僚の呉匡と共に、宦官派の何苗を惨殺する
何進には、直接の血の繋がりはない何苗(かびょう)という男がいました。
彼は、何皇太后の異母兄で、十常侍のサイドに立って反何進を標榜していたようです。
それを知った董旻は、呉匡(ごきょう)という同僚と力を合わせ何苗を惨殺しています。
期せずして、これで大将軍何進の勢力と、宦官を失った何皇太后の勢力は
衰退してしまうのですが、その後、董旻は共に何苗を討った呉匡を追い出します。
兄董卓を洛陽に呼び込んで権力を握る
このタイミングで、何進に呼び付けられた董卓が洛陽の郊外まで来ます。
そこに、陳留王と少帝を連れた十常侍の段珪(だんけい)が通りかかり、
少帝と陳留王の身柄は董卓の手に落ちる事になります。
そのまま、董卓は洛陽に入りますが、車騎将軍、何苗は董旻と呉匡に殺され、
結局、董卓に吸収されたと後漢書の董卓伝には記載されています。
こうして、考えると、呉匡は分かりませんが、董旻が何苗を殺したのは、
彼が十常侍サイドに加担していた何進の仇だからという単純な恨みではなく
董卓が洛陽に入る際に、邪魔になる何進の勢力を排除したかった為ではないか?
そのような推測が出来るのです。
最初から董旻は、兄の董卓を洛陽に入城させる事を考えていて、
邪魔な十常侍と何進の共倒れを密かに歓迎していたのではないでしょうか?
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無双董卓が洛陽を制圧すると左将軍になる董旻
こうして、董卓が洛陽に入り、さらに反董卓連合軍を恐れて、
長安に遷都し、討伐される危機が一応去ると、董旻は左将軍として
鄠(がく)侯に封じられ、董卓の右腕的な存在となっていきます。
董卓は母を池陽君にし、家令や丞を置く事を許されるなどし、
妾が産んだ子供達まで一族をことごとく、貴顕の地位に引き上げていきます。
15歳未満で笄も差していない董白まで渭陽君に封じられた事は有名です。
大半は、董卓の身内だから、出世しただけでしょうが、その中でも
董旻は実際に右腕の働きをしたと言えるでしょう。
仲良し兄弟? 董卓の最期と一緒
董卓は、敵が多かったので、長安の近くの郿に万歳塢(ばんざいう)という
長安と同じ高さの城壁を持つ要塞を築き、食料と金銀財宝を満載し、
ここに一族を住まわせ、自身は、長安と万歳塢に幹線道路を造って往来していましたが、
192年に、とうとう呂布(りょふ)に討たれる事になりました。
この時、董旻も万歳塢にいて、一族を率いて、隴西に戻ろうとしますが、
部下に背かれて一族は皆殺しになります。
董卓の事なので、万歳塢を守るのは信頼できる涼州や并州の兵ではなかったかと
推測しますが、結局、董卓が死んでしまえば、それらは信用できる者たちでは、
なくなっていたという事でしょう。
もちろん、董旻も例外ではなく、この混乱の中で殺害されました。
三国志ライターkawausoの独り言
こうして見ると、董旻の才能は、董卓を離れて成立するものではなく、
董卓の死がそのまま個人の死に直結する事になったのでしょう。
そして、董卓の悪行が余りにも酷いので、それをサポートした董旻の事は
完全に擦れてしまい、目立たなくなったのです。
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