呂布は知将?呂布の知略によって袁術軍はフルボッコにされていた

2017年2月10日


 

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赤兎馬 呂布

 

徐州(じょしゅう)を領有することになった呂布(りょふ)

袁術から婚姻の申し出があるとすぐに応じるのですが、

陳珪(ちんけい)や陳登(ちんとう)らの名士の説得によって袁術と婚姻するよりも

曹操軍と同盟したほうがいいと進言を受けたことによって袁術との婚姻話を破棄します。

すると袁術は呂布に激怒して大軍を催して徐州へ攻め込んでくることになります。

この時呂布は珍しく他人の進言を取り入れて袁術軍をフルボッコにします。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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呂布が進言を受け入れる

呂布

 

呂布は袁術が帝を守っていた楊奉(ようほう)や韓暹(かんせん)らと連合軍を結成して、

徐州へ押し寄せてくることを知ります。

すると彼は陳珪へ「お前が袁術との婚姻話を断れと俺にアドバイスしたから

こんなことになってしまったではないか。どうしてくれんだ」と激怒します。

すると陳珪は「連合軍は明確な目的を持って連合を組んでいるのではなく、

なんとなく連合を組んでいるだけです。

今息子の陳登が楊奉・韓暹らを袁術軍から切り崩して、

こちらに味方するように交渉しております故しばしお待ちくだされ」と進言。

呂布は陳珪の進言に従い戦に出る準備を行います。

そして陳珪から再度「陳登が楊奉らを寝返らせることに成功しました。

そこで将軍にはありたっけの物資を彼らに渡してください。

そうすれば彼らは呂布軍に味方して袁術軍を内側から攻撃することになるでしょう」と

再度進言を行います。

呂布は陳珪の進言に従って楊奉らの陣営にありったけの物資を届けることにします。

 

袁術軍をフルボッコにする

袁術 呂布

 

呂布は袁術軍を迎え撃つべく進軍を開始。

そして袁術軍率いる張勲(ちょうくん)の軍勢とぶつかる寸前にまで近づくと旗をあげます。

すると楊奉・韓暹らが袁術軍へ向かって攻撃を開始します。

この結果、呂布・楊奉・韓暹軍の攻撃を受けてしまい、

袁術軍を率いていた張勲は大混乱した袁術軍を立て直すことができず、

フルボッコにされてしまい本拠地である寿春(じゅしゅん)へ退却することになります。

呂布軍は袁術軍を追撃しながら彼の領地で略奪等を行いながら寿春へ向かいます。

しかし袁術は城門を固く閉ざして出てくる気配がなかったため

徐州へ向けて退却していきます。

 

「ビビってないならかかってこい!!」と罵る呂布

華雄と呂布

 

袁術の領土を暴れまわって寿春に到着するも袁術が城門を固く閉ざしていたので、

退却することになった呂布。

彼は袁術へ手紙を来ることにします。

彼が袁術に送った手紙の内容は「あんたは昔『俺の軍勢は強くて武将も勇猛果敢だ。

だから敵を撃滅することはいとも簡単だ』と述べていた。

しかし俺が寿春に到着して暴れまわっているにも関わらず一向に出てこないではないか。

勇猛果敢な将軍や強い軍勢は一体どこに行ってしまったのだろう。

もしかしたら君はビビって出てこれないのではないか。

もしビビっていないならいつでもかかってくるといい」と挑発的な手紙を送ります。

袁術はこの手紙を見ると激怒して、

呂布軍の後を追っていくことにしますが彼に追いつくことはできませんでした。

こうして陳珪・陳登の策略を採用した呂布は大勝利で徐州へ戻ることになるのです。

 

三国志ライター黒田レンの独り言

黒田廉さん02a

 

呂布は戦に関して軍師である陳宮や高順(こうじゅん)らの進言を

受け入れることをあまりしませんでした。

しかし袁術と対戦したこの戦いにおいては珍しく他人の意見を素直に受け入れております。

珍しく受け入れた呂布の心情は測りかねますが、

陳珪・陳登の策を受け入れたことで大勝利を収めることになったので、

たまには意見を聞き入れるのもいいのかなと袁術との戦以降考えていたかもしれませんね。

 

参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志魏書2 今鷹真・井波律子著など

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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