霊帝の死後、宦官と外戚の勢力争いが一層激しくなります。外戚のトップは、何皇后の兄、何進。宦官は、十常侍(じゅうじょうじ)とよく書かれています。
この記事の目次
十常侍(じゅうじょうじ)って何?
はて。十常侍って、なんでしょう。人名?それとも役職名?
十常侍とは、霊帝の時代に権力をふるった12人の宦官をまとめた言い方です。常時とは、「中常侍」という、皇帝の身の回りの世話をする役職のことです。
えっ。10なのに12人……。だいたいの数で十常侍と呼ばれたようですね。そういえば、中国のグループ、女子十二楽坊だって、12人ではなかったですし。
せっかくなので、十常侍の紹介
いつも一緒くたにまとめられる十常侍のみなさん。ひとりひとりが注目されることはほとんどありません。そんなわけで、せっかくなので、全員を並べてみたいと思います。
正史と『演義』では定義が違うようです。ここでは、『後漢書』に記された12人を挙げることにします。
・張讓(ちょうじょう)135年~189年
豫州潁川郡出身。十常侍のリーダーです。何進の妹を、自分の養子の嫁にもらっています。霊帝からは「わが父」と呼ばれるほど敬愛されていました。霊帝の没後、何進と対立し、暗殺に成功しますが、袁紹らが宮廷に乱入して、多くの宦官たちが殺されたため、皇帝とのちの献帝をつれて城外に逃げました。しかし、追撃を受けて、入水自殺しました。
・趙忠(ちょうちゅう)?年~189年
冀州安平郡出身。張譲とともに、十常侍のリーダー格です。霊帝からは「わが母」と呼ばれるほど頼りにされていました。張譲とともに権力をむさぼり、私腹を肥やしました。皇甫嵩に、規定に反する豪邸を没収されたことを恨みに思い、皇甫数を免職に追い込みました。袁紹が宮廷に乱入してきた際、多くの宦官と一緒に殺されました。
・夏惲(かうん)?年~?年
十常侍として私腹を肥やしていた宦官のひとりですが、189年の時点では、亡くなっていたようです。趙忠とともに、十常侍を斬るべきだと上奏した宦官の呂強を、謀叛の罪でとらえました。
・郭勝(かくしょう)?年~189年
南陽出身。何進と同郷で、何進の妹を霊帝の妃にする際になどに活躍しました。当初は何氏と通じていましたが、のちに対立します。袁紹が宮廷に乱入してきた際、多くの宦官と一緒に殺されました。
・段珪(だんけい)?年~189年
十常侍と何進が対立を深めた際、実際に兵を率いて何進を殺害しました。袁紹により宦官たちが殺されたとき、張譲とともに、皇帝とのちの献帝をつれて逃げますが、張譲と一緒に入水自殺しました。
・高望(こうぼう)?年~189年
司隷京兆郡出身。太子劉弁の寵臣のひとりでした。袁紹が宮廷に乱入してきた際、多くの宦官と一緒に殺されました。
・孫璋(そんしょう)?年~189年?
・畢嵐(ひつらん)?年~189年?
・栗嵩(りつすう)?年~189年?
・張恭(ちょうきょう)?年~189年?
・韓悝(かんかい)?年~189年?
・宋典(そうてん)?年~189年?
十常侍のひとりということはわかっていますが、彼らのあまり詳しいことは残っていないようです。袁紹によって殺された宦官の中に含まれているかどうかも、不明ですが、その時殺された可能性が高いと思われます。
関連記事:後漢を滅ぼす原因にもなった宦官(かんがん)って誰?
関連記事:宦官を容赦なく皆殺したカリスマ袁紹の過激なデビュー