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十常侍ってなんぞや?

2014年12月15日


 

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王族ボンビーから一転セレブ09 霊帝

 

霊帝の死後、宦官と外戚の勢力争いが一層激しくなります。外戚のトップは、何皇后の兄、何進。宦官は、十常侍(じゅうじょうじ)とよく書かれています。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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 十常侍(じゅうじょうじ)って何?

十常侍(宦官)

 

はて。十常侍って、なんでしょう。人名?それとも役職名?

十常侍とは、霊帝の時代に権力をふるった12人の宦官をまとめた言い方です。常時とは、「中常侍」という、皇帝の身の回りの世話をする役職のことです。

 

えっ。10なのに12人……。だいたいの数で十常侍と呼ばれたようですね。そういえば、中国のグループ、女子十二楽坊だって、12人ではなかったですし。

 

せっかくなので、十常侍の紹介

宦官たち 

 

いつも一緒くたにまとめられる十常侍のみなさん。ひとりひとりが注目されることはほとんどありません。そんなわけで、せっかくなので、全員を並べてみたいと思います。

 

正史三国志 vs 三国志演義で揉める現代人

 

正史と『演義』では定義が違うようです。ここでは、『後漢書』に記された12人を挙げることにします。

 

・張讓(ちょうじょう)135年~189年

 

豫州潁川郡出身。十常侍のリーダーです。何進の妹を、自分の養子の嫁にもらっています。霊帝からは「わが父」と呼ばれるほど敬愛されていました。霊帝の没後、何進と対立し、暗殺に成功しますが、袁紹らが宮廷に乱入して、多くの宦官たちが殺されたため、皇帝とのちの献帝をつれて城外に逃げました。しかし、追撃を受けて、入水自殺しました。

 

・趙忠(ちょうちゅう)?年~189年

 

冀州安平郡出身。張譲とともに、十常侍のリーダー格です。霊帝からは「わが母」と呼ばれるほど頼りにされていました。張譲とともに権力をむさぼり、私腹を肥やしました。皇甫嵩に、規定に反する豪邸を没収されたことを恨みに思い、皇甫数を免職に追い込みました。袁紹が宮廷に乱入してきた際、多くの宦官と一緒に殺されました。

 

・夏惲(かうん)?年~?年

 

十常侍として私腹を肥やしていた宦官のひとりですが、189年の時点では、亡くなっていたようです。趙忠とともに、十常侍を斬るべきだと上奏した宦官の呂強を、謀叛の罪でとらえました。

 

・郭勝(かくしょう)?年~189年

 

南陽出身。何進と同郷で、何進の妹を霊帝の妃にする際になどに活躍しました。当初は何氏と通じていましたが、のちに対立します。袁紹が宮廷に乱入してきた際、多くの宦官と一緒に殺されました。

 

・段珪(だんけい)?年~189年

 

十常侍と何進が対立を深めた際、実際に兵を率いて何進を殺害しました。袁紹により宦官たちが殺されたとき、張譲とともに、皇帝とのちの献帝をつれて逃げますが、張譲と一緒に入水自殺しました。

 

・高望(こうぼう)?年~189年

 

司隷京兆郡出身。太子劉弁の寵臣のひとりでした。袁紹が宮廷に乱入してきた際、多くの宦官と一緒に殺されました。

 

・孫璋(そんしょう)?年~189年?

・畢嵐(ひつらん)?年~189年?

・栗嵩(りつすう)?年~189年?

・張恭(ちょうきょう)?年~189年?

・韓悝(かんかい)?年~189年?

・宋典(そうてん)?年~189年?

 

十常侍のひとりということはわかっていますが、彼らのあまり詳しいことは残っていないようです。袁紹によって殺された宦官の中に含まれているかどうかも、不明ですが、その時殺された可能性が高いと思われます。

 

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宦官

 

 

 

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東方明珠

東方明珠

中国は上海の雰囲気が好きなので、テレビ塔の「トンファンミンジュ」を名乗っています。もともと『水滸伝』の大ファンで、『三国志』に興味を持ったのは、アーケードゲーム「三国志大戦」がきっかけです。当時はゲームセンターに通いつめました!まだまだ中国史について勉強中ですが、精いっぱい面白いことを探してお伝えしたいと思っています。

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