十常侍ってなんぞや?


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王族ボンビーから一転セレブ09 霊帝

 

霊帝の死後、宦官と外戚の勢力争いが一層激しくなります。

外戚のトップは、何皇后の兄、何進。

宦官は、十常侍(じゅうじょうじ)とよく書かれています。


 十常侍(じゅうじょうじ)って何?

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はて。十常侍って、なんでしょう。

人名?それとも役職名?

 

十常侍とは、霊帝の時代に権力をふるった12人の宦官をまとめた言い方です。

常時とは、「中常侍」という、皇帝の身の回りの世話をする役職のことです。

 

えっ。10なのに12人……。

だいたいの数で十常侍と呼ばれたようですね。

そういえば、中国のグループ、女子十二楽坊だって、12人ではなかったですし。


せっかくなので、十常侍の紹介

宦官たち 

 

いつも一緒くたにまとめられる十常侍のみなさん。

ひとりひとりが注目されることはほとんどありません。

そんなわけで、せっかくなので、全員を並べてみたいと思います。

 

正史と『演義』では定義が違うようです。

ここでは、『後漢書』に記された12人を挙げることにします。

 

 

・張讓(ちょうじょう)135年~189年

 

豫州潁川郡出身。十常侍のリーダーです。

何進の妹を、自分の養子の嫁にもらっています。

霊帝からは「わが父」と呼ばれるほど敬愛されていました。

 

霊帝の没後、何進と対立し、暗殺に成功しますが、

袁紹らが宮廷に乱入して、多くの宦官たちが殺されたため、

皇帝とのちの献帝をつれて城外に逃げました。

しかし、追撃を受けて、入水自殺しました。

 

 

・趙忠(ちょうちゅう)?年~189年

 

冀州安平郡出身。張譲とともに、十常侍のリーダー格です。

霊帝からは「わが母」と呼ばれるほど頼りにされていました。

 

張譲とともに権力をむさぼり、私腹を肥やしました。

皇甫嵩に、規定に反する豪邸を没収されたことを恨みに思い、

皇甫数を免職に追い込みました。

 

袁紹が宮廷に乱入してきた際、多くの宦官と一緒に殺されました。

 

 

・夏惲(かうん)?年~?年

 

十常侍として私腹を肥やしていた宦官のひとりですが、

189年の時点では、亡くなっていたようです。

趙忠とともに、十常侍を斬るべきだと上奏した宦官の呂強を、

謀叛の罪でとらえました。

 

 

・郭勝(かくしょう)?年~189年

 

南陽出身。

何進と同郷で、何進の妹を霊帝の妃にする際になどに活躍しました。

当初は何氏と通じていましたが、のちに対立します。

袁紹が宮廷に乱入してきた際、多くの宦官と一緒に殺されました。

 

 

・段珪(だんけい)?年~189年

 

十常侍と何進が対立を深めた際、実際に兵を率いて何進を殺害しました。

袁紹により宦官たちが殺されたとき、張譲とともに、皇帝とのちの献帝を

つれて逃げますが、張譲と一緒に入水自殺しました。

 

 

・高望(こうぼう)?年~189年

 

司隷京兆郡出身。

太子劉弁の寵臣のひとりでした。

袁紹が宮廷に乱入してきた際、多くの宦官と一緒に殺されました。

 

 

・孫璋(そんしょう)?年~189年?

・畢嵐(ひつらん)?年~189年?

・栗嵩(りつすう)?年~189年?

・張恭(ちょうきょう)?年~189年?

・韓悝(かんかい)?年~189年?

・宋典(そうてん)?年~189年?

 

十常侍のひとりということはわかっていますが、彼らのあまり詳しいことは

残っていないようです。

 

袁紹によって殺された宦官の中に含まれているかどうかも、不明ですが、

その時殺された可能性が高いと思われます。

 

関連記事:後漢を滅ぼす原因にもなった宦官(かんがん)って誰?

関連記事:宦官を容赦なく皆殺したカリスマ袁紹の過激なデビュー

 

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