漢字が難しいことで避ける傾向にある龐統。
「赤壁の戦い」や「劉備の入蜀」で暗躍しています。まるで地獄の大魔王のように……。彼がいなかったら、三国時代の歴史は大きく変わっていたでしょう。
今回は龐トウがどんな性格をしていたか解説していきます。
破天荒な性格をしていた龐統
大器晩成した軍師・龐統を見出したのはおじさんの龐徳でした。彼に「鳳雛」の異名を与え、諸葛亮と並ぶ軍師として名が広まりました。
鳳雛とは中国の伝説の鳥、鳳凰の子どもという意味。鳳凰は麒麟と並ぶありがたい動物です。その鳳凰の一文字が冠せられたことから、いかに龐統が優秀であったかが分かります。
龐統は人を占うとき、あえて過大評価することでみなを励ましていました。噓も方便といったところでしょう。彼の助言によって人生を変えた武将も多いはずです。
また、三国時代の英雄、曹操、周瑜、劉備らと対面するなど大胆さも持ち合わせた軍師です。顔が知られていないが故にできた芸当かもしれません。元来、人を騙す術に長けていたのでしょう。
曹操をペテンにかける龐トウ
かの赤壁の戦いで火攻めが成功した理由は船が鎖でつながれていたからです。でも、冷静に考えてわざわざ機動力の高い船を一つにするメリットなどありません。誰かがそそのかしたのです。
大船団を率いて赤壁の地へ赴いた曹操軍。龐統は呉・蜀連合軍側につきます。彼は敵の曹操軍に潜入、曹操に対面して兵士が船酔いをするかもしれない。士気を高めるため船を鎖でつないで揺れを抑えたらどうかと提案。
疫病が蔓延し、士気がさらに落ちるのを懸念したのか曹操はあっさり龐統に騙されます。
これが有名な「連環の計」です。無数の船を密集させることで水上にありながら、一気に火攻めで船団を灰にしてしまうのです。
まるで周瑜の手柄のように思われていますが、実は龐統の知恵。自ら敵陣・曹操の元へ足を運ぶなど大胆な行動に出た龐統がいたからこそ呉・蜀連合軍は勝利できたのです。
希代の怠け者であるホウ統
赤壁の戦い以後、劉備に従った龐統は地方官僚に任命されます。冷遇されたことに腹を立てたのか仕事を一か月ほど放置。
村人に怠慢を報告されると中央から張飛がやってきます。すると龐統は、たまった仕事を一日足らずで仕上げてしまい張飛を啞然とさせます。誤った人事異動に気付いた劉備は慌てて側近に龐統を迎えます。
劉備をそそのかす龐統
義に厚い劉備。親戚の劉璋がいる蜀攻めに手を煩わせます。
なぜ同族を追い出してまで領地を広げる必要があるのかと……。そこでペテン師・龐統の出番です。劉備の下についた以上、劉備軍が勝たないと自分の身も危うくなります。戦乱の世ですから、軍師が一番よく分かっています。
蜀入りに際して、龐統は劉備に3つのプロジェクトを提案します。「1強硬突破」、「2偽装工作」、「3退却」です。これを受けて劉備は偽装工作案を採用します。
具体的には白水関を守っている武将に理由をつけて劉備の下へ招集。スキを見て暗殺するというセオリーです。劉備と劉璋は親戚ですから、親族として歓迎したいなどと言ったのでしょう。まんまと騙された楊懐と高沛の両武将は、龐統の策によって命を奪われます。
当時、劉備と劉璋の関係は良好でしたから、疑う理由もなかったのでしょう。これによって劉備は白水関を手にします。
龐統の最期
成都攻略に当たって、まず雒城を包囲した劉備軍。龐統は白馬にまたがって間道を抜けます。しかし、間道といえば兵を潜ませるのにうってつけの狭い道です。流れ矢に当たって龐統は命を落とします。
彼の墓は今でもその地に存在、とても小さな墓です。劉備は龐統の死を聞くと涙を流したそうです。
三国志ライター 上海くじらの独り言
曹操や劉備のように表立って活躍する人物ではなかった龐統。まるで裏社会の人間のような存在でした。流れ矢に当たって死んだとなっていますが、劉璋に配下に龐統の頭脳を畏れた者がいたのかもしれません。
軍師といえば諸葛亮ばかりスポットライトが当たります。しかし、曹操や劉備、周瑜の戦略に関わっていたことを考えれば、諸葛亮を凌駕する三国時代の”フィクサー”と言っても過言ではありません。
関連記事:蜀建国の功労者龐統の最期が悲しすぎる