三国志については、史実として伝えられていることと、作家である羅貫中が書いた『三国志演義』での設定とで、扱いが変わってしまっている人物がたくさんいます。とりわけ司馬一族の扱いは揺れ幅が大きい箇所となります。
というのも羅貫中、「面白くするためには過剰脚色してナンボ」なサービス精神にあふれている上、とにかく「蜀びいき」で、蜀を滅ぼした司馬一族にはどうも筆が冷淡なのです。
おかげで『三国志演義』では司馬一族の扱いはどうもスッキリしないのですが、いちばん悲惨な目をみているのが、司馬師ではないでしょうか?
「司馬師は瘤のせいで死んだ」という話が一人歩きしてしまい、羅貫中の物語では「司馬師といえば瘤男」というほど、この点ばかりが強調されてしまっているきらいがあるからです。
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司馬師は別に「瘤が特徴の男」ではない!史実の司馬師はむしろ容姿に自信あり?
実際、正史側では、司馬師については、「容姿が上品ですぐれていた」とか、「物腰が冷静沈着で、雅を理解する男であった」など、悪いようには書かれていません。むしろ、よい評価といえる記述ではないでしょうか。
こうした記述を追う限りでは、ハンサムだったというわけではないにせよ、知恵者然とした「品のよい政治家」だったという印象がします。今風に言えば、高級スーツや高級腕時計が似合う「冷静で仕事のできそうなおじさん」というところでしょうか。
瘤の話については「死因がそのせいであった」と言われているだけです。別に「顔に巨大な瘤があった男」のようには強調されていません。推測の域を出ませんが、この記述を追う限りでは、目の下に瘤があったというのも晩年の病気のせいであって、最初から目立つ瘤があった人ではなかったのかもしれません。
「瘤」に食いついたのは後世の羅貫中!
ところが後世に、話を面白くするためなら何でも貪欲に利用する男、羅貫中が現れました。彼にとって、「司馬師は瘤のせいで死んだ男」という伝承は、「む、これはキャラ設定に使える!」とピンとくるところだったのではないでしょうか?
それゆえ『三国志演義』では、姜維軍との戦闘シーンで、司馬師はこんな描写で登場してきます。
「前方に現れたのは、丸顔に大きな耳、四角な口に厚い唇で、左の眼の下に黒い瘤があり、その瘤には数十本の黒い毛が生えていた。これこそ司馬懿の長男、司馬師なのであった!」
ほとんどバケモノの描写ではないでしょうか?
そしてその司馬師の最期も、『三国志演義』の描写では、「戦場の幕中で病に横になっているときに襲撃を受け、動顛したところ、目玉が瘤の切り口から飛び出してしまった。あたりは一面、血の海となった」とされています。そんな死に方、普通の人間に起こり得ますでしょうか?これはもう過剰描写ではないでしょうか!
まとめ:いっそ司馬師には目玉を食べてほしかった!
羅貫中は他にも、三国志のキャラクターの史実に何かと「やりすぎ」なエピソードをつけてしまうきらいがあります。有名なところでは、夏侯惇が左目を負傷したとき、「父母に産んでもらったこの目玉、もったいないわ!」と自分で食べてしまったという事件。
豪放な夏侯惇の性格を象徴するようなエピソードですが、これもまた羅貫中の創作です。これは過剰描写とはいえ、読者の心に残る名場面になったということで、羅貫中の創作の才能がうまく働いた場合と言えそうですが。
三国志ライター YASHIROの独り言
「でも羅貫中先生、夏侯惇にそんな見せ場を用意してくれたのなら、せっかくの司馬師の最期も、もう少しカッコよくしてあげてもよかったのではないでしょうか!」とも思うところ。
せめて司馬師の死に様も、「瘤の痕から目玉が出てしまって苦痛にのたうちまった挙句に事切れた」なんて痛々しいものではなく、「父母に産んでもらったこの目玉、もったいないわ!ちなみに俺の父ちゃん司馬懿!」と叫びながら、飛び出した目玉を自分で食べてから事切れるくらいのインパクトを用意してあげて欲しかった!
いや、それこそ過剰描写か。というか、ここまでやったら、それこそ司馬師はバケモノ扱いか。
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