司馬師(しばし)と言えば、諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)の宿敵であった司馬懿(しばい)の長男で順調にゆけば弟の前に晋王(しんおう)に即位したであろうという人物です。
司馬師は性格もなかなか剛毅であり、西暦249年、父である司馬懿が高平陵(こうへいりょう)の変を起し、魏で権力を握る曹爽(そうそう)をクーデターで追い落とそうと計画した前夜の事、息子達の胆力を見ようと人を遣って様子を探らせてみた事があります。
次男の司馬昭(しばしょう)は落ち付かず、そわそわしていましたが司馬師は腹を括り悠然と寝ていたのだそうです、司馬懿は感心して「この子は極めて優れた子だ」と言ったと晋書、景帝紀にあります。ところが、この司馬師は、三国志の人物中でもかなり強烈な最後を遂げています。それは目玉が飛び出して死んでしまうというものです。
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西暦255年、許昌 司馬師 死す
司馬師「うあああ、、黙れ!夏侯玄(かこうげん)、、李豊(りほう)、張緝(ちょうしゅう)、、貴様達とて、曹爽の下で、魏の帝室を軽んじていたではないか・・どうしてワシを恨む・・あああ、消えろ、消えてくれ、誰か、誰かいないのか・・」司馬師は、ここ数日、高熱を発して、うわごとを繰り返していた。左目の下にあった悪性の瘤の傷口から眼球が飛び出してしまい、患部から細菌が入ってしまったのであろう。弟である司馬昭は、痙攣しながら、うわごとを繰り返す兄の姿に、底知れない悲しみを覚えた。
司馬昭「兄上、、司馬一族を背負う重圧とはかように重いものですか・・」
司馬昭がつぶやくと、師は悪夢から覚めたように右目を開いた。
「昭!、昭!、こっちへ、こっちへ来い!」
司馬師は鬼気迫る表情で、手に持った大将軍の印綬を司馬昭の手に握らせた。
司馬師「父から司馬一族の命運を受け継いで以来、わしは重圧に苦しめられておった・・出来得れば、弟であるお前に、この苦労は背負わせたくなかったが、、これも天命である止むを得ぬ、、」
司馬昭「あ、、兄上・・」
司馬師の腕は全力で司馬昭の腕を掴んでいた、それは痛みを感じる程に強かった
司馬師「昭、もはや、後戻りは出来ぬぞ、、毒喰らわば皿まで、、だが帝位を覗うは慎重にせよ・・どれ程に朽ちても、帝室に忠臣ありき・・よいか・・それを忘るるなか・・れ・・」
必死の形相で天を睨んでいた師の表情がふと緩んだ、、それと同時に、昭の腕を掴んでいた師の腕がするりと落ちた。司馬師、死去、亨年、満47歳、、
司馬師の左目の瘤の正体とは?
さて、司馬師の左目の瘤とは実際にあったのでしょうか?
これについては、晋書景帝紀にも記述がある事から事実であると思います。さらに、景帝紀の記述によると、、
・初、帝目有瘤疾
と書いてある事から、左目の下の瘤は司馬師が生まれつき、持っていたものだった可能性が高いと思います。医学的に言うと、この眼窩(がんか)という部分は、様々な器官があり元々瘤が出来やすい場所であるようです。
恐らく、司馬師の瘤は、元々は小さかったものが、年月を経る間に大きくなり、ついには、悪性腫瘍(あくせいしゅよう)、つまり癌(がん)化したものではないかと思います。司馬師は、この瘤が邪魔になり、医師に命じて、切開させ、中の膿を出させています。おそらく、膿が熱を持ち、発熱などの症状があったか、視界に入る程に、瘤が大きくなり、流石に我慢できなくなったのかも知れません。
実は、眼窩の部分は空洞が多く、少しの事で目が飛び出す
司馬師が瘤を切開するという外科手術を受けた後、魏の毌丘倹(かんきゅうけん)が反乱を起します。司馬師は、これを自ら鎮圧しようと、左目を庇いながら軍を指揮しますが、文欽(ぶんきん)の子の文鴦(ぶんおう)の奇襲を受けて驚いて傷口が開き、左目が飛び出したと記述されています。
それだけ聴くと、これはかなりの衝撃のようなイメージですが、実際には、眼球が飛び出るというのは割合にあるらしいです。司馬師の場合には、元々、腫瘍により左目が圧迫されていた可能性もあり、目玉が飛び出しやすい状態になっていたかも知れません。そうでなくても戦場という不愉快な場所で、血圧も上がっていたでしょうから不意の奇襲を受けて、眼球が飛び出すというのはあり得ると思います。
腫瘍が無くても、眼球が飛び出すケースは普通にある
別に、司馬師のように瘤がなくても、眼球が飛び出してしまうケースはそんなに珍しくはないようです。元々、眼窩が薄い、瞼が薄いという人は、大きなくしゃみをしただけで目が飛び出したり、コンタクトレンズをつけようとして目が飛び出たりという事が起きます、ちゃんと病名があり「眼球脱臼」と言います。
もし、目玉が飛び出したら、どうするのか?
もし、目玉が飛び出してしまったら、慌てず(無理でしょうが・・)速やかに最寄りの眼科を受診する事をオススメします。医師は、麻酔で目が飛び出た痛みを抑えつつ、手袋着用で白目を持ち、眼窩の中に押し込んで、抗生物質、点眼薬などを与えるようです。そして、外傷がない場合には、殆どの場合には数日で視力は回復するという事でした。
三国志ライターkawausoの独り言
司馬師は、眼球が取れてから激しい痛みに耐えながら指揮を続けたとあります。部下に悟られないように、布団で傷口を覆い隠していましたが、あまりの激痛に布団をぼろぼろに食いちぎってしまったようです。出来れば、そんな事をしないで、眼球脱臼として、すぐに医師を呼んで眼球を元に戻していれば、感染症で急死する事も無かったかも知れません。もっとも、視界に入る程の大きな瘤なら悪性腫瘍の可能性が高く、すでに体中に癌が転移していたかもしれないので、どの道、寿命は長くなかったという事かも知れませんが・・我慢するのもかなり痛かったでしょうに、司馬師の壮絶な臨終に対し、kawausoも合掌したいと思います。
本日も、三国志の話題をご馳走様でした。
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