火攻めによって夷陵の戦いに勝った陸遜。この戦いでは陸遜の冷徹な判断が勝利につながりました。
しかし、もし陸遜が部下のストライキに屈して呉軍を裏切っていたら、どうなっていたのでしょうか。陸遜の生い立ちも踏まえながら、紹介していきます。
なぜ陸遜の部下が不満を抱いたのか?
そもそも夷陵の戦いにおいて、なぜ諸侯の不満が湧いて出たのかがポイントです。頭も切れるし、孫権の信頼も勝ち取っている陸遜。傍目からするとストライキの要素がないように感じます。
例えば、学校でも先生目線と友達目線とで評価が違うことがあるでしょう。実は諸侯のストライキも、それによく似た現象なのです。
陸遜の妻は孫権の姪
夷陵の戦いの前に陸遜はゴールインしています。相手は孫策の娘。つまり孫権の姪に当たります。
この婚姻により陸遜は呉のトップである孫権と親戚関係になったのです。孫権から見れば優秀な配下をつなぎとめておくための政略だったのかもしれません。真意はどうであれ、姪を嫁にやるぐらいですから陸遜を信用していたのは間違いないようです。
陸遜を臨時の大都督に任命
臨時にではありますが、夷陵の戦いにおいて陸遜は大都督に命じられます。これは戦での全権を握っているようなもので、ほぼ陸遜の判断で部下を指示することができる権力です。これだけなら夷陵の戦いに赴いた部下も不満はさほど出ません。
理由は陸遜の出自にあります。
陸遜は現在の上海市松江区あたりに生を受けます。父親は陸遜が6歳のときに亡くなり、祖父は袁術と仲たがいし、盧江に攻め込まれます。二年ほど持ちこたえますが、数か月後に病で世を去ります。予め陸遜は呉郡に引っ越していたため難を逃れました。
夷陵の戦いで追従した諸侯たちは歴戦のつわもの。軍師ごときに何ができるのかと見下していたのです。
孫権との付き合いも長く、家柄も良い諸侯から見れば、嫉妬するのも無理はないでしょう。いわば孫権先生の親戚であるクラスメイトが投票なしで学級委員に選ばれたようなものです。
呉軍が夷陵をとれなかったら…
歴史では夷陵の戦いで呉軍は勝利を治めますが、もし陸遜が部下のストライキに耐えかねて蜀に寝返っていたら戦局は、どう動いたでしょうか。
まず、夷陵の戦いが終わった後に劉備が白帝城に逃げ込む必要がなくなります。夷陵は蜀に近く、夷陵の東側には水に恵まれた豊かな土地が待っています。
劉備だけでなく、蜀の民も潤っていたことでしょう。
二世紀ごろの中国では、すでに水運が発達していました。そのため、民も権力者も黄河や長江といった大河に沿って生活し、繁栄します。
現在の北京や上海、香港の経済発展を知る私たちにとっては違和感があります。しかし、人が生きるのに最も必要なのは「水」と「食料」、そして「空気」です。
必然的に水が多い場所に文明は生まれます。
一見すると安泰のように見えますが、時代は三国鼎立。北からは曹丕が攻めてきたに違いありません。
夷陵の戦いで劉備が呉軍を退けていても曹丕の脅威にさらされていたでしょう。
陸遜の命運は?
諸侯からストライキにあっていた陸遜は、夷陵の戦いで信頼を勝ち取ります。もし、勝利していなければ、やっぱり無理だったかと諸侯に冷笑されていたでしょう。
陸遜は石亭の戦い以後、厚い待遇を受けますが、丞相の役職に就くと呉の後継者争いに巻き込まれます。孫権とその息子の孫和との関係が悪化するのです。もし、陸遜が夷陵の戦いで負けていたら、もっと穏やかな人生を送れたかもしれません。
三国志ライター 上海くじらの独り言
陸遜の生い立ちと夷陵の戦いで陸遜の裏切りがあったらというテーマで執筆しました。そもそも史実を曲げるのは愚の骨頂である感じる読者もいることでしょう。
しかし、歴史は権力者によって都合よく書き換えられるものです。史実に固執せずに豊かな発想で三国志を見ていくのもロマンチックだと思います。遺跡の発掘で歴史が変わることは、よくあるのですから…。
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