三国志では、あまり知名度の高くない武将・張繍。しかし、あの曹操と戦って勝利を得ています。
その後も軍師・賈詡と協力して出世街道を歩むのです。
それでは、どのようにして曹操を破ったのでしょうか。ここでは曹家との関わりを中心に張繍を紹介していきます。
賈詡との出会いで人生が変わる張繍
董卓の配下に「張済」という武将がいました。張繍との関係はひいおじいさんの兄弟の孫という位置づけ。ほぼ他人に近い親戚です。
しかし、親戚同士のつながりが強い中国の伝統で、こうした遠い親戚であっても密接に関わりあうことがありました。そうした縁で張繍は董卓の部下の部下という位を得ます。やがて、転機が訪れます。
南陽郡の「穣」を攻めていた張済が流れ矢に当たって命を落としてしまったのです。張繍にとっては父親のような存在である張済。
彼の軍は張繍が率いることとなります。同時に参謀として「賈詡」を従え、劉表と同盟を結ぶ運びとなりました。
奇襲作戦で曹操を脅かす張繍
「将軍は曹操には及ばない」そう言ったのは参謀の賈詡。この言葉を張繍は、素直に受け入れます。西暦197年、曹操軍が南陽郡・淯水に陣を張ります。族父・張済が亡くなってから2年あまりが経過していました。
曹操にはかなわないと信じ込んでいた張繍は曹操に降参の意を示します。調子に乗った曹操は、亡き張済の妻をお持ち帰り。
曹操の行動はスキャンダルに発展します。すると張繍は曹操に恨みを抱くのでした。
どこで知ったのか、曹操はこの事実を知り、先手を打とうと「張繍暗殺計画」を立てます。邪魔者は消してしまえという発想です。ところが軍師・賈詡が曹操の立てた計画を張繍に知らせ、彼は曹操の上を行きます。
この奇襲作戦の成功により曹操軍は典韋を始め、名だたる武将を失います。ほうほうの体で曹操は「舞陰」へ遁走。張繍は「穣」に無事、帰還します。
裏をかいて曹操サイドに!
西暦199年。曹操は袁紹と対立するようになります。
かねてから劉表と組んで「対曹操同盟」を結んでいただけに将軍・張繍は袁紹サイドにつくつもりでいました。ところが軍師・賈詡は劣勢の曹操サイドにつくようアドバイスをします。
理由は
1.曹操の勢力が弱いこと
2.味方すればかなりの出世を約束されること
を挙げました。
予想通り「列侯」の位をゲットした張繍。西暦200年の官渡の戦いで活躍し、「破羌将軍」となります。
列侯とは自分の治めるエリアにおいてトップになることを意味し、そこに住んでいる人々から税金を徴収することもできます。大きな屋敷を建て、左うちわで暮らしたことでしょう。
例を挙げると、南陽郡の列侯となると本人は「南陽侯」と呼ばれるようになります。そして、南陽国が成立するのです。やがて、西暦207年の柳城の烏桓を攻略中に張繍は病気で倒れ、この世を去ります。
武将らしい最期といえるでしょう。また、賈詡は曹操軍の参謀として大活躍し、子の曹丕にも仕えることとなりました。
三国志ライター 上海くじらの独り言
曹操と敵対しながらも最後は味方になった張繍。それもすべて賈詡の助言に寄るものでした。賈詡との出会いがなければ張繍は袁紹サイドについて、あっという間に曹操にやられていたでしょう。
賈詡は張繍に仕えていたため、自分が生き延びるために張繍を勝たせる必要があったのです。それが契機となり、曹操や曹丕にも重用されるようになります。一方で張繍もなかなかの頭の切れる人物です。
たいていの人なら部下に「優秀だが、そこまで偉大ではない」と言われたら、首にするところです。ところが自分のスキルを適格に見極めているとして受け入れ、以後は賈詡に判断をあおぐようになります。
この張繍の冷静さも彼が生き延びた要素の一つ。一度、奇襲をかけて打ちのめした曹操の配下となるのです。
例えるなら、サッカー選手がレアルマドリードの誘いを断って、カタールのチームに行くようなもの。
柔軟な思考を持っていなければ、なかなかできない芸当です。
同様に賈詡の助言が優れていたことも示しています。
賈詡がいなければ、張繍は「破羌将軍」に登りつめることはなかったでしょう。
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