日本史の教科書でちらっと登場する「魏志倭人伝」。これが本のタイトルと思っていた読者もいるでしょう。しかし、それは目次の一部。
当時の魏の国からすれば、東の海を越えた日本のことは未知の国の存在だったのです。いわば現代人が「はやぶさ2」で小惑星のリュウグウを調査するような感覚でした。
魏志倭人伝は魏書のほんの一部
三国志の時代に陳寿と呼ばれる公務員がいました。魏志倭人伝が載っている三国志を書いた人物です。
彼の三国志の画期的な点は一国からの視点ではなく、「魏書」、「呉書」、「蜀書」の三つに書物を分け、執筆していたことです。あまりの素晴らしさに魏書を執筆していた夏侯湛は、自分の本を破り捨てたという逸話も残っています。
一般に歴史書は一国の目線、つまり支配者にとって都合のいい情報ばかりが盛り込まれる内容になっており、三国それぞれに分けたという発想が陳寿の称賛される理由です。
そのうちの「魏書」に東夷伝という項目があります。東夷とは中国からみた東側にある野蛮な国の数々という意味です。魏の敵対勢力になりえる存在でしたから、見下した呼び方をしています。
その東夷伝には9つの国の記載があり、一番最後に倭人という項目が存在。その一項目のみを取り上げて、魏志倭人伝としているのです。従って、正確には「三国志 魏書 東夷伝 倭人の項」ということになります。
魏から見た日本の地理
絶賛された陳寿の三国志。日本の自然や衣服、習俗については、再現できるほど細かい内容でした。しかし、地理的状況は実際に行ってみないとわからないのでしょうか。けっこう曖昧です。
一行は、まず対馬に到着します。そこから南へ海を渡ると「末盧国」があるとされ、ここは九州の佐賀です。
そして、南東へ向かうと「伊都国」へ着きます。
女王がいて現在の福岡県だそうです。さらに南東に行くと小さな国(博多)があり、東には不弥国(福岡県)があるそうです。
投馬国は船で20日!
そして、注目したいのが「投馬国」です。さきほどの不弥国(福岡県)から海路、つまり船で20日かかって到着したとあります。
海を渡ったとあるので、九州以外の四国か本州でしょう。いくら三国時代の船でも福岡から山口まで20日はかかりません。個人的見解では、日本海周りで船は進み、島根か鳥取が投馬国ではないかと思います。理由は江戸時代以前の日本は日本海側が開けており、舶来品もすべて福岡や新潟を経由していました。瀬戸内海や太平洋側を航行した可能性は低いのです。
新説、邪馬台国は伊勢!?
そして、ついに卑弥呼のいる邪馬台国が登場します。ここは投馬国から海路で10日、陸路で一ヵ月かかって到着。かなりの山奥です。
私見では、さきほどの「投馬国」で中国地方に到着していますから、伊勢神宮辺りが怪しいとにらんでいます。一行は若狭湾(京都)に到着し、徒歩で琵琶湖や鈴鹿山脈を越え、伊勢に至ったと推測しています。
卑弥呼は女王になってから、弟のみを側近に置いていました。そして、召使が千人もいたと「魏志倭人伝」に記されています。伊勢の内宮のご神体も女性で「天照大御神」といい、外宮は男性で農業の神様である「豊受大御神」。
卑弥呼が天に召された後、弟とともに神様として伊勢に祭られたのではないでしょうか。
神様として祭れば、墓荒らしに遭うこともなく、神聖さを維持できたはずです。伊勢には山田という地名があり、邪馬台国と発音が似ています。
弥生時代の日本の漢字は、すべて発音をもとに漢字が当てられていました。字面より発音を重視するべきでしょう。さらに山田の倭町では弥生時代の竪穴式住居が発見されています。
魏の皇帝に謁見していた日本の使者
さて、山奥の邪馬台国から曹操のいた魏の国まで使者を派遣していた卑弥呼。
奴隷を10人ほど差し出し、
「よくぞ参られた。ここまでくるとは感心な人物じゃ。ふぉっふぉっふぉ。」
と言われ、金銀財宝や米を下賜されています。
なお、当時の魏の皇帝は曹叡でした。
三国志ライター上海くじらの独り言
三国時代にも日本に文明があったことを証拠づける魏志倭人伝。魏書の中の東夷伝の倭人という項目であったことを知る人は一握りでしょう。
他の項目は朝鮮半島などの国名でしたが、日本だけは倭人という人種で記載されています。きっと著者の陳寿から見ても当時の日本人は宇宙人ぐらい未知の存在だったのかもしれませんね。
海の向こうは滝があって、落下してしまうと思われていた時代。日本人を宇宙人と思っていても何ら不思議ではありません。
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