「呉下の阿蒙にあらず」で知られる孫呉の名将・呂蒙。
彼は病が原因で亡くなることになりますが、どのような病にかかって亡くなったのでしょうか。正史三国志と三国志演義から調べてみましたので、ご紹介したいと思います。
荊州平定後病にかかる呂蒙
呂蒙は関羽を討伐し、荊州南部を平定することに成功。
その後呂蒙は孫権から荊州平定後の功績が認められ、黄金や銭など様々な物を与えられます。しかし呂蒙は孫権からの褒美をすべてもらう前に倒れてしまいます。
呂蒙の治療を尽くすも…
呂蒙は病に倒れると孫権から色々な医者が派遣されてきます。例えば鍼灸専門の医者がやってきたり、薬師がやってきて呂蒙の病気に聞くような薬を調合したりといろんな専門医が呂蒙の元を訪れて力を尽くしていきます。
そのかいあって呂蒙は一時的にですが、病が回復に向かいます。孫権は呂蒙の病が回復した事を知ると大喜びで、大赦を行い、重臣達も呂蒙の回復を喜んでいました。しかし呂蒙の病は一時的にしか回復することはなく、再び病をぶり返し、そのまま亡くなってしまうのでした。
ざっくりとですが、呂蒙の死を紹介してきましたが、彼の死因はいったい何なのでしょうか。
呂蒙の死因はいったい何!?
呂蒙の死因はいったい何なのでしょうか。
正史三国志を調べてみても、呂蒙の死因については詳しく書かれていませんでした。そのため呂蒙の死因が一体何なのかわからない状態ですが、ある程度予想することはできます。
呂蒙は荊州平定後いきなり病にかかったのではなく、荊州平定戦が行われる前から病気になりがちでしたが、魯粛の跡を継ぐまでは、病にかかっていたなどの記載はありませんでした。
そこでレンは呂蒙の死因については、彼の疲労が原因だったように思われます。呂蒙は魯粛の跡を継ぐと外交や内政など多くの事に目を向け、多忙な毎日を過ごしていたでしょう。
更に孫呉と蜀の間で決着がつかないまま放置されていた荊州問題もあります。呂蒙はこのように多くの事をさばかなくてはならない為、休む暇もなく働かなくてはなりません。
そのため呂蒙は疲労が体に残り、関羽討伐戦が始まる前から病にかかり、関羽討伐戦が終わり、長年の問題だった荊州問題が解決すると蓄積していた疲労が噴出し、呂蒙の体を病が蝕んだのではないでしょうか。正史三国志では呂蒙の死因は不明でしたが、三国志演義では呂蒙の死因はどのように描かれているのでしょうか。
関羽の呪いで死ぬ呂蒙
三国志演義の呂蒙は関羽の呪いで亡くなっています。
呂蒙は荊州平定戦後、関羽の呪いに祟られてしまい発狂。その後呂蒙は孫権に向かって「俺は関羽だ!!」と言った後、体中から血を噴き出して亡くなってしまったそうです。
三国志演義の呂蒙の死因は関羽の呪いですが、体中から血を噴き出して亡くなる様子って、かなりグロテスクで読者も中々読みにくいと思うのですが、レンの気のせいでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は正史三国志と三国志演義から呂蒙の死因を紹介しました。
正史三国志の呂蒙の死因は病にかかったとされるだけで、どのような病にかかって亡くなったのかは、いまだ謎のままで明らかにされていません。それ比べて三国志演義の呂蒙の死因はちょっと脚色しすぎじゃないかなと思ってしまいます。
三国志演義の呂蒙は人気者の関羽を討ち取ってしまったせいか、「呉下の阿蒙にあらず」の故事や自分の死後、授与された物を孫権へ返上した事などが描かれていないそうです。三国志の中でも屈指の名将で人気者の関羽を殺害したとはいえ、三国志演義での呂蒙の扱いは、ひどすぎるような気がします。
そのため皆さんは呂蒙を正当に評価してあげてくださいね。
■参考 正史三国志呉書など
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