「魏」といえば夏侯といわれるほど縁の深い一族。
夏侯和は、その将軍である夏侯淵の4人目の子どもとして生を受けました。ここでは史実を中心に夏侯和の深謀遠慮なキャラクターに迫っていきます。
夏侯淵の4番目の子ども
武将・夏侯淵ですが、子どもは夏侯衡・夏侯霸・夏侯称・夏侯和・夏侯威・夏侯栄・夏侯恵がいました。その数7人。
夏侯和は、その4番目の子どもとして生まれます。
母親は丁氏、卞氏、劉氏のいずれかという言い伝えで、劉氏に至っては曹操の妹に当たります。こうした血縁関係から夏侯一族は曹操と深い間柄にあったことが推察できるでしょう。出身地は現在の安徽省・亳州でした。三国時代は沛国と呼ばれていました。日本で江戸時代に東京が武蔵国と呼ばれていたのと似た感覚です。
「河南尹」の位に就任
夏侯和は魏おいて「征西将軍」と呼ばれ、征東将軍・征南将軍・征北将軍と並ぶ四征将軍の一人に数えられていました。
「西を征する将軍」という意味ですから、魏国の西側で武功を上げたか、西の地域を受け持っていたのでしょう。父親同様、かなりの力があったようです。そして、「河南尹(官名の一つ)」にまで登り詰め、大臣として魏国に欠かせない存在となります。
鍾会の乱
西暦264年8月、鍾会の乱が起きます。
このとき夏侯和は、成都にあって鍾会に惑わされることなく、断固とした態度を貫き通します。また、危険を顧みず、諭したそうです。
まもなく、鍾会は天に召され、夏侯和は生き残ります。
夏侯和の正しい判断が実を結んだのでしょう。晋朝の成立に際して武帝擁立に一役買います。つまり、皇帝に対して借りを作ったことになり、皇帝に近い権力を握りつつあったのです。
中国で皇帝を擁立する際は、親や兄弟同士で駆け引きをすることが多く、刺客を放って敵対勢力を葬ることも日常茶飯事でした。
結果的に「晋」という一大国家が成立していますが、当事者の夏侯和は一歩間違えれば、殺されていたかもしれないのです。
さらに言えば、鍾会が新しい王朝を建てていた可能性もあります。それぐらいギリギリの状況で王朝の交代は行われます。
淡々と曹一族の魏から司馬一族の晋朝に変わったように見えますが、影では様々な策が張り巡らされていたのです。
晋の皇帝が倒れる
ある日、皇帝が危篤になります。一方で、それは次の皇帝候補を立てるチャンスでもあるのです。当時、夏侯和には娘が二人いました。そのうちの一人が斉王に嫁いでおり、夏侯和にとっては娘の夫、つまり義理の息子を皇帝に仕立て上げる絶好の機会だったのです。
斉王のように「王」がつくのは、皇帝の親族のうち次の皇帝になりうる存在であることを意味します。そういった身分を持つ人物は皇帝とは別に自分の住居を与えられ、「斉王府」というお屋敷名で呼ばれるのです。
現在でも北京に行けば、「恭王府」など皇帝の親族の屋敷を観光することができます。
閑話休題。不運にも危篤だった皇帝は持ち直します。
皇帝は側近から、夏侯和が次の皇帝候補には斉王がいいのではと進言したことを耳にします。勘の鋭い皇帝は、きっと夏侯和が斉王を次期皇帝に仕立て、自分が政権を握るに違いないと予測したのでしょう。
クーデターを起こされないよう夏侯和から兵権を取り上げ、役職を「光禄勲」にグレードダウンさせます。こうして夏侯和のフィクサー計画は頓挫するのです。
兵を動員できなければ、皇帝に対抗できません。処刑こそされませんが夏侯和に関する記述は、ここで途絶えます。
きっと目ぼしい活躍はなかったのでしょう。
三国志ライター上海くじらの独り言
夏侯一族の一人、「夏侯和」の生涯について執筆しました。
それほど耳にしたことのない武将でもたくさんのストーリーが展開されているものです。今まで三国志に深い関心を寄せていなかった読者もよりディープな三国時代の世界に埋没できたことでしょう。イメージが湧きにくい人は実際に中国へ旅行してみるのもいいかもしれませんね。
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