夏侯淵の息子・夏侯和。夏侯和は賈充の娘の旦那・司馬攸に期待を寄せていたそうですが、司馬攸が期待を寄せる程凄い人物だったのでしょうか。今回は夏侯和が期待を寄せた司馬攸について紹介したいと思います。
司馬師の養子へ
司馬攸は司馬昭の息子でしたが、司馬昭の兄・司馬師に子供ができなかったため、司馬師の家に養子になります。
司馬攸は養父・司馬師が亡くなると、周りが心配するほど養父の死にひどく落ち込みます。その後司馬攸は養父の死のショックから立ち直ると、学問をしっかりと学び、文章も巧みになり、「さすが司馬師殿の息子だな」と聡明の評判が高く、周りの人から期待されるようになります。司馬攸は学問をしっかりと学んだことで、兄・司馬炎よりも才能の点や人望の点において勝っていたそうです。
司馬昭の跡を継げなかった無念の人
司馬昭は晋王に就任すると自分の息子・司馬炎よりも、司馬師の元へ養子に行った司馬攸を後継者にしようと考えていました。
しかし司馬昭は家臣の賈充や荀顗らに「司馬炎様を跡継ぎにするべきです。なぜなら長幼の礼に反するようなことをなさってはいけません。」大反対されます。
その結果、司馬昭は司馬攸を跡継ぎにするのを諦めて、司馬炎を跡継ぎにします。もし司馬攸が司馬昭の跡を継いでいれば、晋王朝もかなり長く続くことになったかもしれません。
優れた政治を行う司馬攸
司馬攸は司馬炎が晋王朝を開くと斉王に任命されます。司馬攸は斉王になりますが、領土へ赴くことなく領土内の政治を行います。司馬攸は間接統治で斉の地を治める事になりますが、政治をおろそかにすることなく、民にやさしい政を行います。
例えば飢饉で作物が収穫できない場合、民衆へコメを配給して、困窮していた民衆を救います。また豊作の年には税収を少なくして民衆の負担を軽する政治を行ったそうです。
このように司馬攸は民衆の事を大切にする政治を心がけていました。司馬攸は優れた政治を行っていた事から、夏侯和達から司馬炎の後継者として大いに期待されていました。
期待が大きかったせいで…
司馬攸は夏侯和や他の家臣達から晋王朝の次の皇帝になるようにと期待されていました。しかし司馬攸が皇帝になると困る人もいます。
荀勗らは司馬攸が司馬炎の死後の皇帝に君臨すれば、自分たちの身が危ないと考え、司馬炎へ「司馬衷様よりも皆は皇太子に司馬攸様がなられた方がいいと思っています。その証拠に司馬攸様を青州へ派遣するように命令してください。すると朝廷で大反対されますから」と注意を促します。
司馬炎は荀勗らの進言を受け入れて、司馬攸を青州へ赴任するよう命令を出します。すると司馬攸の能力に期待している人々は次々と「司馬攸様を外に出すのは良くありません」と反対意見を述べます。
司馬炎は反対意見を聞いて激怒し「これは兄弟間の問題でお前たちには関係ないから、二度と反対意見を述べるな!!」と激怒。この結果司馬攸は司馬炎の命令を受けて、青州へ向かうことになります。
憤激して亡くなる司馬攸
司馬攸は司馬炎から青州へ向かうようにとの命令を受けると荀勗らが画策した策謀であることを知り、激怒しますが、司馬炎の命令に反抗することなく受け入れることに。司馬攸は時が経つにつれて荀勗らの策謀に怒りが膨らみ、病にかかってしまいます。その後司馬攸は青州へ向かう途中で病が悪化し、亡くなってしまうのでした。
三国志ライター黒田レンの独り言
司馬攸は夏侯和達から大いに期待されていました。
夏侯和は賈充の娘の一人が司馬攸に嫁いでいたため、賈充へ「司馬衷様はあまり賢くないので、司馬攸様を司馬炎様の跡継ぎにするのがいいのではないでしょうか。」と提案。しかし賈充は夏侯和の提案を採用しませんでした。
その後司馬炎は夏侯和が賈充に司馬攸を跡継ぎにするべしと提案していた事を知り激怒。夏侯和の爵位を格下げしたそうです。司馬炎は司馬攸にあまりいい感情をいだいていなかったのではないのでしょうか。もし司馬炎が司馬攸にいい感情をいだいていれば、彼を自分の跡継ぎにしたと思うのですが、みなさまどのように思いますか。
■参考 三国志武将辞典など
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