広告

[周瑜の終焉]驚愕、憤死の背後に隠された物語

2024年1月11日


赤壁の戦い

 

 

赤壁(せきへき)の英雄として曹操(そうそう)軍の大軍を撃破することに成功した周瑜(しゅうゆ)

 

陸遜を庇う周瑜

 

 

三国志のゲームや小説等の普及によって、三国志の武将の中でも一、二を争う人気の高い人だと言えるでしょうこの周瑜ですが、三国志演義と正史では全然違う亡くなり方をしていたのを皆さんは知っていましたか。今回は三国志の人気武将・周瑜の亡くなり方にスポットライトを当ててみたいと思います。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



三国志演義の周瑜は孔明のかませ犬的な役割だった!?

周瑜と孫策(断金の交わり)

 

正史三国志の周瑜は孫策(そんさく)の義兄弟として登場します。周瑜は孫策時代、彼のよきパートナーとして孫呉の基礎部分を作り上げた功臣として描かれています。また周瑜は孫策が亡くなると孫策の跡を継いだ孫権(そんけん)へ仕え、孫権の参謀兼アドバイザーとして活躍。更に周瑜は孫呉の総司令官として曹操の大軍を赤壁の戦いで撃破し一躍天下の有名人へ。

 

三国志演義の周瑜は孔明のかませ犬的な役割だった

 

他にも周瑜は赤壁の戦い後も天下二分の計を発案し、孫呉が天下を取るまでの戦略を作り上げた優秀な人物でした。正に周瑜は孫呉にとって英雄的な人物と言っていい活躍をしていた人物と言えるでしょう。しかし三国志演義の周瑜はちょっとかわいそうな人物なんです。

 

新解釈・三國志 NO斬首と叫ぶ孔明 孔明、周瑜

 

三国志演義の周瑜は正史三国志で曹操軍の大軍を赤壁で撃破したにも関わらず、三国志演義では周瑜の赤壁での活躍を諸葛亮(しょかつりょう)が知力の限りを尽くして曹操軍を撃破したような描き方をされています。また周瑜は諸葛亮を危険な人物とみなし、色々な罠にかけて殺害しようと企みますが、ことごとく諸葛亮によって罠を見破られてしまうのです。このように三国志演義の周瑜は諸葛亮の噛ませ犬的な役割を与えられてしまったちょっとかわいそうな人物なのです。この周瑜ですが亡くなり方も正史三国志とは全然違い、三国志演義で独特のやり方で周瑜を殺害しているのです。

 

 

 

三国志演義の周瑜の最期は憤死だった!?

三国志演義の周瑜の最期は憤死だった

 

三国志演義の周瑜の最期は憤死(ふんし)してしまいます。憤死とはウェブで調べてみると激しく怒って亡くなってしまうことを言うのだそうです。三国志演義の周瑜の死因は憤死ですが、何に周瑜はそんなに怒っていたのでしょうか。周瑜が激怒した原因は諸葛亮にありました。

 

亡くなる周瑜

 

周瑜は戦で負った矢の傷が中々治らずに臥せっていました。そんな中、周瑜のライバル諸葛亮から手紙が届きます。この諸葛亮からの手紙には「周瑜どの。君の計略は僕が全部見通しているから~。君程度の策略じゃ僕の足元にも及ばないよ」とかなり挑発的な手紙を周瑜に送りつけます。

 

朝まで三国志2017-27 周瑜

 

周瑜はこの手紙を呼んでめちゃくちゃ激怒し「なぜ天は俺がいるのに諸葛亮をこの世界に登場させたのだ!!」と激オコこしながら亡くなってしまうのです。この諸葛亮の挑発的な手紙を読めば、周瑜じゃなくても憤死しそうな気がするのはレンだけでしょうか。またここまで周瑜が諸葛亮の噛ませ犬的な扱いがされているのはすごくかわいそうではありませんか。

 

 

三国志ライター黒田レンの独り言

三国志ライター黒田レンの独り言

 

三国志演義の周瑜は諸葛亮の挑発的な手紙を呼んで憤死してしまいます。では正史三国志の周瑜はどのような亡くなり方をしているのでしょうか。正史三国志の周瑜は孫権と今後の戦略について語った後、益州を攻略するための準備を行うため江陵へ向かいます。

 

周瑜

 

しかし周瑜は江陵へ戻ることができず帰還途中の巴丘(はきゅう)という所で病を発病してしまい亡くなってしまったそうです。正史三国志の周瑜の最期は急病を発して亡くなってしまったのに対して、三国志演義の周瑜の亡くなり方は余りにも酷すぎるのではないのでしょうか。三国志演義は娯楽の読み物としての部分が多いので多少の脚色があるのは仕方がないとしても余りにも周瑜の最期は脚色しすぎだと思うのですが、皆様は三国志演義の周瑜の最後に対してどのように思いますか。

 

■参考 正史三国志呉書等

 

▼こちらもどうぞ

周瑜の名言から知る三国志の世界「人生れれば死あり。修短は命なり」

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

-外部配信
-