孫堅が活躍した時代は三国志の初期の頃なのはみなさん知っていると思います。この頃の曹操や劉備はまだあまり活躍をしていませんでしたが、孫堅だけはずば抜けて天下にその名を轟かせていました。しかし孫堅は英雄たる素質を持っていたのでしょうか。今回は孫堅が英雄たる人物だったのか調べてみたいと思います。
英雄の定義とは!?
孫堅が英雄たり得る人物だったかを紹介する前に英雄の定義とは一体何なのでしょうか。皆さんの英雄の定義はなんですか。カリスマ性があり、頭が良くて、国家を建設したりですか。それともカッコよくて、強い人物でしょうか。『はじめての三国志』の読者には色々と英雄の定義を持っている方がいらっしゃると思います。その中で著者の英雄の定義は戦に強く、世間に名前が知られている事を英雄の定義にし、この二つに孫堅が当てはまるかどうかで英雄だったのか調べてみたいと思います。
【英雄の定義その1】孫堅は戦に強かったのか??
英雄の定義その1として孫堅は戦に強かったのでしょうか。この点は間違えなく孫堅が戦の強い人物で、この定義に当てはまると思います。孫堅は戦にめっぽう強い人物で、董卓討伐戦の時に彼の戦の強さが発揮されることになります。孫堅は董卓軍の中でも優れた将軍の一人である華雄を討ち取ることに成功し、董卓の本拠地であった洛陽近辺にまで一気に進出することになります。董卓は孫堅軍の勇猛さに驚き恐れ、洛陽から長安へと撤退することになるのです。
董卓を討伐しようとして結成された反董卓連合軍の誰も洛陽の近くに進出することができなかった事を考えれば、孫堅がどれだけ戦に強い武将だったのかわかると思います。
【英雄の定義その2】孫堅は天下に名前を知られていたの??
英雄の定義その2としては孫堅が天下に名前を知られていたのかです。この点も孫堅は英雄の定義に当てはまる人物だったと思います。孫堅は反董卓連合軍の中で董卓を単独で追い詰め、董卓を洛陽から去らせることになった要因を作ります。このことがきっかけで天下に孫堅が勇猛果敢な武将として名前が知れ渡ることになります。
孫堅は英雄たる人物であった
孫堅は黒田レンの【英雄の定義】に両方とも当てはまっており、英雄たる人物だったのではないのでしょうか。しかし孫堅は英雄たる人物であっても寿命に恵まれませんでした。孫堅は袁術から劉表討伐を命じられると、劉表の居城・襄陽を包囲して追い詰めます。しかし孫堅は単騎で襄陽郊外の峴山という場所を通行中に劉表軍の攻撃を受けて亡くなってしまいます。
どうして単騎で孫堅がこのような場所を通行していたのか知りませんが、もしこの時に孫堅が討ち死にしなければ、孫堅の勢力はかなり大きくなり、袁家の兄弟に匹敵するほどの勢力を築くことができたでしょう。そして孫堅が袁家兄弟の勢力に匹敵するほどの勢力を確保することができれば、三国志の歴史はかなり違った方向へ動いたのではないのでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
英雄と呼ばれた曹操や劉備も大勢力を築く前に色々な失敗を犯しています。しかし孫堅は董卓討伐戦までに大きな失敗や敗戦をあまり経験したことがありませんでした。もし孫堅が董卓討伐戦前もしくは董卓討伐戦において、戦いで敗北している経験を持っていれば、劉表軍の攻撃を受けるような不用意な事をしなかったのではないのでしょうか。孫堅が敗北の経験を持っていなかった事だけが唯一の失敗だったとレンは思います。
■参考 正史三国志呉書等
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