濡須口の戦いとは、西暦212年から223年にかけ、断続的に三度行われた戦いです。
この戦いでは、曹操が40万もの大軍を動員したとも言われ、実際には赤壁の戦いよりも規模の大きな戦争なのですが、劉備が絡まないので、三国志演義では大きな扱いになりませんでした。そこで、10月のはじ三は、地味な大会戦濡須口の戦いを特集します。
そもそも濡須口ってどんな土地?
※注意、地図はかなりテキトーです
三度にわたり魏呉の間で争奪戦になった濡須はどんな土地なのでしょうか?
濡須とは、長江と淮河の間にある合肥一帯に存在する巣湖から流れる支流で古くは濡須水と呼ばれていました。濡須口は、その濡須水が長江に注ぎ込む河口の事を意味しています。濡須水の河口だから濡須口と言うわけですね。
巣湖の北西には合肥城があり、その先に施水があり魏の領地です。つまり、この濡須口を魏に奪われると魏は巣湖を経由していつでも大船団を長江の先にある建業まで進める事が出来、孫呉には大きな重圧になります。そういう事があり、孫権は須湖に堤防を築いて流れを堰き止めてしまい魏の水軍が南下するのを阻止したりしています。
合肥に攻めるにも濡須口は大軍移動に便利
守備するばかりではなく、濡須口は長江を遡り合肥を攻撃するにも最適でした。長江に大船団を浮かべて移動させれば数日で巣湖に船団が至るわけで補給物資にしても船に積めば合肥城までは苦労しないで運べます。孫権は、西暦230年に一度は東興堤を建造して巣湖を堰き止めますが、後に淮南を攻める時に堤を破壊して、そこに船を浮かべ252年に諸葛恪が再び堤防を築くまでは、復活させませんでした。それは、濡須口が攻めるにも守るにも重要な拠点である事を意味し合肥を生涯に4度も攻めた孫権には必要不可欠だったのです。
長江は軍隊が渡れるポイントが限られる
軍隊の渡河には、大きなリスクが伴いました。河と言っても長江は幅が数キロもあり、簡単に渡れるようなものではありません。もし渡河の最中に敵軍が対岸で迎撃態勢を整えて進んできた場合には渡河中の軍は、いく事も戻る事も出来ず立ち往生し全滅する事もありました。
ただ、長江にも途中に中州のような場所や水深が浅いポイントがあり、そこは津と呼ばれて、軍隊が渡河する為の重要なポイントでした。濡須口の付近にも中州があり、ここは船ではなく歩兵が移動するには、都合が良い渡河ポイントでした。呉としては、この渡河ポイントを自軍が抑えて敵に渡さない為に濡須口は硬く守る必要があったのです。
西暦212年に孫権が都を呉から建業に遷した
孫呉の都は、変遷を繰り返しています。最初は呉であったのが長江に沿っていて物流に便利である秣稜に根拠地を遷しここを建業と改名しています。西暦212年は第一次濡須口の戦いの年であり、曹操が長江の付近に首都機能を遷したので、ここを奪取しようと考えたのでしょう。
ただ、孫権は首都機能を遷しただけで、実際には荊州、交州、揚州を束ねるのに便利な武昌に滞在しています。その後、西暦229年に孫権が帝号を名乗ると正式に建業を首都にします。この時孫権は、防戦の意図を固めたのか濡須口に繋がる巣湖の端を堤防で堰き止めていました。これは、呉からの船団を長江から遡らせないという意志表示になりそれを受けて濡須口の戦いは起こらなくなります。しかし、その後情勢の変化で孫権は東興の堤防を壊したので以後は再び濡須口周辺で戦いが起きるようになりました。
三国志ライターkawausoの独り言
まとめてみると、濡須口が度々、大軍がぶつかる戦場になったのは、魏の重要拠点である合肥があり、そこから建業までは僅かに150キロしかなく長江に流れ込む支流である濡須口が魏軍に奪われると、建業が大船団に包囲されてしまう恐れがあるという事になります。巣湖やその支流を利用し船を使えば、軍隊も物流も飛躍的に効率的になるので曹操も孫権も濡須口をなんとか確保しようと躍起になったのです。
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