こんにちは。日本古代史ライターのコーノヒロです。前回は、「ヤマタノオロチ」に例えられた出雲の「斐伊川」の水害を抑えたスサノオの功績についてのお話でした。朝鮮半島からの鉄の流通を活発化させ、鉄製農具を多く作り、灌漑事業を成功させたというものでした。しかし、スサノオの実績は果たしてそれだけだったのでしょうか?
今回は、「古代出雲王国」を躍進させたと考えられる、スサノオの出雲王としての実績についてもう少し深堀したいと思います。どうぞよろしくお付き合いください。
(以下、「古代出雲王国」は、「出雲王国」と記します。中世期の「出雲国」と呼ばれた時代との区別を目立ちやすくするため、敢えて「古代」を頭につけて表記しましたが、「出雲王国」でも区別は目立つと判断し、以下の文中では、そのように表記します。)
出雲王国の領土拡大政策
スサノオの時代は、中国大陸での「黄巾の乱」が起きて、大陸や朝鮮半島が、群雄割拠し始めた190年代と推測されます。この時代、倭国と呼ばれた日本列島は、「倭国大乱(第一次)」の時代であっただろうと伝わっています。そうすると、スサノオの出雲王国の時代は、戦乱に明け暮れる時代だったのでしょうか?
そして、そのスサノオの後継者の、大国主の時代は、平和な時代として、富国に努める姿が『古事記』や『日本書紀』で描かれています。ということは、「倭国大乱」(第一次)を終わらせたのはスサノオということにならないでしょうか?
しかし、それでは疑問が出てきますね。『魏志倭人伝』の記述とかなり違ってくるのです。『魏志倭人伝』では、倭国大乱を終わらせたのは、邪馬台国の女王の卑弥呼ということになっていますよね。どういうことでしょうか?それでは、このスサノオの時代の出雲王国は、どれだけの領土を獲得していたのかについて探りましょう。それについての興味深い説として、次のようなものがあります。出雲王国の最大領域についです。出雲国を拠点として、伯耆国、但馬国、因幡国、丹波国。さらに、播磨国、紀伊国、近江国、美濃国、尾張国、信濃国。そして、高志国(越=越前、越中、越後)にまで及んでいたというのです。
つまり、現代の地域名で言い換えるなら、中国地方から北陸地方までの日本海沿岸と、本州の瀬戸内海側、近畿地方の大和川流域、東海地方の沿岸や信濃川流域まで抑えていたということになるでしょうか。(ただ、古代の日本ですから、完全なる中央集権国家ではなく、連合国家的な性格のものだったと考えられるでしょう。)ということは、
西日本の場合、九州や四国の地域は、抜け落ちていることになりますね。東日本の場合では、もしかしたら関東地域(例えば、武蔵国。現在の東京都東久留米市あたりにまで影響力を与えていたという説もあり。)まで勢力をのばしていたかもしれないとされる古代出雲王国ですが、関東地方の全域まで及んでいたとは考えにくいでしょう。
敵対する別の勢力が存在していてもおかしくはないでしょう。それが、九州の邪馬台国や狗奴国だったのではないでしょうか。さらに、大和地域を始め山間部などでは、土着の山の民や山賊のような中小の勢力が、競合していたと考えられるでしょうか。そうすると、ヤマタノオロチは水害でもあると同時に、倭国大乱の象徴でもあったとも考えられるでしょうか。だからこそ、「クサナギの剣」がオロチ退治とともに登場したとも考えられるでしょう。
剣は鉄製農具を意味しますが、武器そのものも表していると言って良いでしょう。その武器で戦乱を勝ち抜くか、威圧するかで、スサノオは、王国の領土を拡大していったのではないでしょうか?
スサノオの「国盗り物語」だった?!あるいは「国盗り神話」だった?!
やはり、スサノオの時代は、出雲王国にとって領土拡張の時代だった可能性が高くなってきましたね。「鉄の神」のスサノオは、水害と戦乱を乗り越え、平和を築き上げたという見方ができるでしょうか。先述した、出雲王国の最大領土は、スサノオか次代の大国主(オオクニヌシ)の時代のものと考えてよいでしょう。最も出雲王国が繁栄したのは、その二人の代のときだからです。そうすると、後継者の大国主がやってのけた「国作り神話」に対して、スサノオの時代は「国盗り神話」ともいえるでしょうか?それとも、オオクニヌシの時代も実質は、「国盗り神話」という見方もできるでしょうか?
「農業王」として讃えられているオオクニヌシですが、その代、出雲王国の周辺には、おそらく北九州を拠点にしていただろう邪馬台国を始め、多くの、敵対しないにしても、非同盟の関係の国々や勢力が乱立していたでしょう。一触即発の緊張状態は続いていたと考えて良さそうです。
「韓」の国と共謀した!?
(画像:朝鮮半島と帯方郡Wikipedia)
そして、さらに見えてくるのは、朝鮮半島の「三韓」の影響力ではないでしょうか。前回の話のおさらいをすると、朝鮮半島の南部に勢力を持っていた「三韓」の中で、倭国と交流が深かったと言われる「弁韓」の王族のスサノオが、出雲王国に、水害対策のために迎えられたかもしれないということでした。
ただ、水害対策の見返りに、「三韓」側が出雲王国との共同国家の樹立を画策していたのではないかとの推察をお話しました。「三韓」(中でも、おそらく、宗主国の馬韓)の狙いは、出雲と連合王国の成立させ、遼東半島を含め、分裂していた、中国大陸の列強の豪族や新興の勢力、さらには、朝鮮半島北部で俄然勢力拡大を狙っていた、「高句麗」に対抗しようとしていたとも考えられますね。おるいは、強大な東アジア統一圏をも狙っていたのではないかとも考えられますねしかし、それが実現したという事実はなかったのは、背後からの力が大きく影響していたでしょう。
中国大陸での建安年間(196年~220年)といわれる時代では、後漢王朝の家臣だった公孫氏の一族によって、朝鮮半島北西部「楽浪郡」と呼ばれた地域の南部に「帯方郡」が打ち立てられます。これは、公孫氏による、ほぼ独立した政権でした。これが強盛に出たのです。「韓」(三韓)は防戦となり、ついには、服属という形になったと言われています。このとき、倭国も「帯方郡」に服属したというのです。
古代日本史ライターコーノ・ヒロの独り言
結局は、中国大陸の影響力が勝っていたということでしょう。そして、このとき、神話で言うところの「天孫降臨」の話につながるのではないでしょうか。邪馬台国が出雲王国を飲み込む話になるのです。このとき、北九州あたりを根拠地にしていた邪馬台国は攻勢に出るのです。
ということは、その時、アマテラスこと邪馬台国女王の卑弥呼は、「三韓」の王族でありながら、いち早く中国大陸の公孫氏や後漢王朝に寝返ったということになるでしょうか?
次回は、このあたりの話を再考します。
お楽しみに。
【参考文献】
◆『出雲と大和 ― 古代国家の原像をたずねて ―』村井康彦著(岩波新書)
◆『伊勢と出雲 韓神と鉄』 岡谷公二著(平凡社)
◆雑誌記事
『関東に及んでいた古代出雲文化圏 <東久留米の古社・遺跡をたずねて>』
(石飛仁 著)
〔出典:季刊 日本主義 no38 2017 夏 (白陽社 刊) 〕
◆『日本書紀 上(全現代語訳)』
宇治谷孟 著(講談社学術文庫)
◆『新訂 古事記』
(角川ソフィア文庫)
◆『マンガでわかる古事記』
清水義夫 著・フリーハンド:マンガ(池田書店)
◆『東アジア民族史1
正史東夷伝 』
井上秀雄 ほか訳注
平凡社
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