呉のイケメン三人衆といえば「孫策(そんさく)」「周瑜(しゅうゆ)」「陸遜(りくそん)」というイメージですが、みなさんはどうでしょうか。
三国無双の陸遜(りくそん)は爽やかですね。「三国志演義」には陸遜について、180cm以上の長身で、「面如美玉」と表現されています。まさにイケメンそのものの描写ですね。孫策・周瑜の奥さんも美人だったようですから、陸遜の奥さんもさぞかし美人だったことでしょう。今回は陸遜の妻は誰なのかについてお伝えしていきます。
陸遜の妻は誰なのか?
「三国志正史」呉書によると陸遜の伝には「権以兄策女配遜、数訪世務」とあります。ここでいう権とは主君である孫権のこと、兄策とは孫権の兄で亡くなった孫策のことです。女とは娘のことであり、孫権は兄・孫策の娘を陸遜に嫁がせ、政務についてアドバイスを得ていたということになります。
陸遜が孫策の娘を妻としていたことは有名ですが、孫策が陸遜の器量を認めて娘を嫁がせたわけではなく、孫権が陸遜を認めて姪を嫁がせたわけです。陸家は呉郡でも有力な豪族ですから、地元豪族との結びつきを強くしたい孫権にとって地盤を固める政略結婚でもあったわけです。
陸遜が妻をめとるまで
陸遜は陸家本家の陸康を頼って盧江郡に住んでいましたが、寿春に本拠地を置く袁術と対立、その配下の孫策に攻められます。陸遜は家長代理として陸家一族を引き連れて、故郷の呉郡に戻りました。孫策がその後、呉郡も制圧しますが、陸遜は出仕していません。もしかすると孫策に対し恨みのようなものがあったのかもしれません。陸遜は孫権に代替わりした際から仕えるようになりました。当初は将軍府属官、海昌郡で軍政官を務めています。
陸遜が大きな武功をあげたのは、会稽郡の山越族頭目・潘臨を募兵して討ってからです。さらに216年には鄱陽で反乱を起こした尤突を討ち、ついに部隊司令となりました。これらの活躍が孫権の目にとまり、その高い能力を気に入られた陸遜は孫策の娘を妻とすることになったのです。
陸遜の妻は大喬との間の子供だった?
陸遜ファン、孫策ファンにとって気になるのは、孫策と大喬の娘と陸遜が結ばれたのかどうかということでしょう。ちなみに陸遜は孫策の8つ年下です。孫権よりも1つだけ年下です。ほぼ同世代といっていいでしょう。陸遜が孫策の娘を妻に迎えたのは216~217年の頃だと考えられますので、陸遜が34歳くらいですね。孫策は200年、26歳で亡くなっています。
娘が200年に生まれていたとすると、陸遜と結ばれるときは17歳くらいですからちょうどお似合いのカップルですね。ちなみに孫策と大喬が出会ったのは、袁術の死後、孫策が盧江郡太守の劉勲を打ち破った際になります。199年のことです。孫策と大喬はわずか1年しか一緒に過ごせなかったわけですが、
そのときに娘を身籠っていたことは充分に考えられます。もしかすると双子の女の子で、姉が陸遜に嫁ぎ、妹が顧雍の息子の顧劭に嫁いだかもしれません。孫策の娘の母が誰なのか、その容姿や性格についてもどこにも記されていないので確証はないのですが、陸遜の妻が孫策と大喬の間に生まれた娘だった可能性は充分に考えられるわけです。
三国志ライターろひもと理穂のまとめ
孫策と大喬、美男美女から生まれた娘ですからきっと美しく、器量も良かったのではないでしょうか。
ちなみに陸遜の次子で父の汚名を注いだ英雄「陸抗(りくこう)」は、陸遜と孫策の娘の間に生まれた子です。孫氏の血を受け継いでおり、中国史上六十四武将に選ばれているほどの名将として知られています。想像するに陸抗もまた立派な容姿だったに違いありません。その他の三国志の妻紹介の記事も掲載していますので、気になる英雄がいましたら「はじ三」で検索して、ぜひ読んでみてください。
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