陸抗(りくこう)ってどんな人?父の無念を晴らした孫呉最後の名将

2015年11月4日


 

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陸遜(りくそん)は呉の名都督ですが、孫権(そんけん)に諫言したため無実の罪で獄につながれた後、失意のうちに亡くなりました。失意の内に亡くなった陸遜の息子が陸抗(りくこう)です。蜀が魏に降伏した後、陸抗が生きている間は魏軍(晋軍)の侵攻を見事に防ぎ、呉の命脈を保った名将です。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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父親の汚名を雪ぐ

 

陸抗の父親は夷陵の戦いで劉備軍を破った名将陸遜です。陸遜は孫権を諫めたことで無実の罪を着せられ、失意の内に亡くなりました。陸抗は父の葬儀を終えた後、孫権から新たな爵位をもらった事への感謝を言いに建業へ立ち寄ります。陸抗が来たことを知った孫権は陸遜の罪状を陸抗に厳しく問いただしました。陸抗は筋道を立てて、父陸遜の罪に反論しました。孫権は、この反論を聞き陸遜への疑念はすっかり晴れました。若き陸抗は父陸遜の冤罪を見事に晴らすのです。

 



孫権が陸抗に涙した逸話

張昭 VS 孫権

 

また陸抗が病を治療する為、建業に帰郷します。病が治って勤務地に帰還することになった際、孫権は涙を流しながら「私は、讒言を信じたせいであなたの父親に無実の罪を着せてしまった。あなたに対しても非常に申し訳ないと思っている。以前あなたに送った詰問状はすべて焼却して、人の目にも触れないようにしてくれないだろうか。」と陸抗に謝ったと言う逸話が残っています。何にせよ陸抗は孫権に対して堂々と父陸遜の罪状に反論し、父の汚名を晴らすことに成功したのです。

 

孫呉の重臣陸抗は魏の羊祜と親交を結ぶ

 

陸抗は、諸葛誕(しょかつたん)が魏に反乱を起こした際、援軍に赴き魏の将軍などを討ち取る功績をあげます。この武勲により征北将軍が授与され呉の重臣になります。その後も勲功を上げ続け260年には孫呉の軍事拠点である、荊州の総指揮官に任命されます。孫呉においてなくてはならない存在となった陸抗ですが、荊州に赴いた時に、魏の名将羊祜(ようこ)と親交を結びます。

 

平和な時はお互いに国境を越えて酒を酌み交わし、陸抗が病と知れば羊祜は薬を送るなど深い絆で結ばれていきます。またお互いに国境を守る者として、必要の無い争いをやめ、領地経営に力を入れようと申し合わせていたそうです。三国志終盤の武将の中では珍しい存在といえます。

 

名将の頭角を現した西陵城攻略戦

 

羊祜と親交を結び平和な時を過ごす陸抗ですが、突如、西陵城が晋に(曹魏は滅び司馬氏が皇帝となり、晋と国号を定める)に降伏します。陸抗は諸将を率いて西陵城を包囲しますが、数か月たっても落とすことができません。西陵城にてこずっている間に、親友である羊祜が荊州の中心である江陵城攻略に動き出します。陸抗は江陵城に救援を差し向けず包囲を続けます。

 

陸抗軍に新たな困難が発生

 

西陵城に晋の大軍が来援し、さらに陸抗に反乱を起こす武将などの大ピンチに見舞われます。このピンチにおいて陸抗は一つ一つ冷静に対応することでこのピンチを脱します。まず反乱をすぐに鎮圧します。次に別働隊を編成し、親友羊祜を抑え込み、最後に援軍に来た晋軍を撃破するという離れ業をやってのけます。陸抗の活躍により晋軍は退却し、反乱を起こした西陵城を攻略します。西陵城を攻略後、反乱を起こした将軍を打ち首にした後、反乱に加担した兵士全員を許るすのです。

 

この功績が皇帝孫晧に認められて大司馬に任命され、報奨もいっぱいもらいます。しかし陸抗は誰にも自慢しなかったそうです。その為、諸将はこの攻略戦以降陸抗を敬い、陸抗の命令をしっかりと聞き仕事に励んだそうです。

 

孫呉を思う気持ちが人一倍強い陸抗

 

孫呉の名将として成長を遂げた陸抗ですが、父陸遜に似て孫呉を思う気持ちは人一倍強い忠臣です。孫呉のラストエンペラー孫晧(そんこう)は暴虐で気に入らない臣下は左遷や殺害したりします。また美女を後宮に集めて酒池肉林の日々を過ごす暴君でありました。この暴君に真正面から注意した人物は陸抗を入れてわずか数人しかいません。その他の臣は孫晧に媚びるか、怖くて注意できない臆病者のどちらかです。そんな中、陸抗は孫呉のためにしっかりと注意します。西陵城の戦いが終わった後、政治家である薛瑩(せつえい)が讒言により投獄されます。しかし陸抗は暴君である孫晧に正面から注意します。この注意により、薛瑩は死罪を免れるのです。

 

また陸抗が病に倒れ、完治が望めない状態になった時、孫晧に領土防衛の重要性と募兵制度を批判し、改革案を示します。また国力回復に注力することを書簡に書き記し、孫晧に送っています。その後、陸抗の病は完治することなく亡くなってしまいます。陸抗の死後から6年後の280年に晋の孫呉討伐軍に呉軍は敗れ続け、孫呉は降伏します。

 

三国志ライター黒田廉の一言

黒田廉

 

孫権の晩年から内乱が相次ぎ、孫権死後も政治の主導権争いが絶えず、孫呉の国力は回復しませんでした。そんな中、同盟国であった蜀が滅亡、この厳しい状況の中、孫呉を必死になって支えたのは陸抗一人といっても過言ではないと思います。天下の80パーセント以上が晋になってしまい、晋軍が本気を出して蜀や荊州、揚州など三方向から侵攻すればたやすく孫呉を打ち倒すことも可能であったはず。この軍事作戦ができなかった要因の一つは陸抗の存在があったからだと私は思います。孫呉最後の名将といっても言い過ぎではないでしょう。

 

 

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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