魏(ぎ)の末期、麻薬や酒をあおりながら実務と全然関係ない老荘思想(ろうそうしそう)の話ばかりして政治の世界から距離を置いていた、浮き世離れした変人集団の「竹林の七賢(ちくりんのしちけん)」。
このサロンは司馬懿(しばい)の派閥が専横を極める政治に対立していた反・司馬懿派の政治結社ですが、なぜ反・司馬懿だと老荘思想なのでしょうか。
この記事の目次
外戚(がいせき)と儒教の因縁
話は三国志のお話が始まる頃、後漢(ごかん)末期にさかのぼります。後漢では皇帝のママの一族である外戚(がいせき)と、皇帝の身近にお仕えする宦官(かんがん)とが権力争いをして世の中ぐっちゃぐちゃになっちゃったわけですが、政府でお仕事をしていた偉いお役人さんたちは宦官のことは嫌いでありまして、外戚のほうと仲良しでした。
例えば、三国志に出てくる袁紹(えんしょう)は代々高級官僚を輩出している家柄の出身ですが、外戚である何進(かしん)に協力して宦官勢力を排除しようとしていましたよね。このように、外戚と仲良しの官僚さんたちですが、彼らはみんな儒教を身につけている人たちでした。後漢では儒教重視政策があったので、儒者(じゅしゃ)じゃないと官僚になりづらかったためです。
儒者官僚(じゅしゃかんりょう)はいいトコのぼんぼん
儒教を修めて官僚になるという出世コースなわけですが、どのようにして就職するかというと、それは郷挙里選(きょうきょりせん)という制度で、地元の有力者から「うちの地域にこんなナイスガイがいるからオススメ!」って推薦してもらって就職するわけです。こういう就職方法なので、官僚はみなさん地元に根付いた有力者の階級の出身です。地元で人気のお金持ちの家の子じゃないと、誰もわざわざ推薦なんかしてくれませんからね……。
儒者官僚が国を悪くした!?
この、地元で人気のお金持ちの家の子らがえげつないんすわ。地元に都合のいい政策ばかり通そうとするんですよ。実家は地元に根を張っていて、税金を払いきれなくて夜逃げしたような流民を自分のところで囲って農奴として使って荘園経営なんかして潤っちゃってるわけです。
民に夜逃げされたら国家の税収が減るわけですから、国は貧乏になる一方、地方の豪族は潤う一方。官僚たちは実家が豪族なもんで、国家にとって困ったその状況にも見て見ぬふりっすわ。こうやって世の中、悪くなっていったんですよ。宦官ばかりのせいじゃない。
我らがヒーロー、曹操(そうそう)登場!
腐った官僚が牛耳る腐った世の中に我慢ならなかったのが、あのちっこいオッサン、曹操(そうそう)です。彼は宦官の孫ですから、儒者官僚たちとは出自が違います。なんのしがらみもなく改革を断行できるわけです。
そもそも宦官の孫であるというだけで儒者官僚たちからは人間じゃないみたいに扱われるわけですから、何もかもぶっ壊して作り替えてやれって思うのはごく当然の成り行きですな。そうして曹操は魏の建国のいしずえを築きましたとさ。
曹操LOVEからの老荘思想
曹操の志は、儒教にとらわれず合理的で公平な政治をしようということでした。儒教が牛耳っている世の中で芽が出なくても、曹操の体制の中でなら生き生きと活躍できるという人が大勢いました。そういう人たちは、みんな曹操のやってることが大好きで、儒教に対しては反発する立場をとっていました。儒教への反発の一つの形式としてあったのが、老荘思想です。つまり、老荘思想は曹操大好き、儒者官僚大嫌い、という立場をとっていることの目印だったわけです。
司馬懿は儒者
曹操は司馬懿の才能を高く買っておりかつ非常に警戒していました。鳴かぬなら殺してしまいたかったホトトギスでしょう。なぜ曹操が司馬懿を毛嫌いしたかというと、司馬懿は儒者官僚の家柄の有力者だったからです。彼の存在は無視できない。目の上のたんこぶ。言うこと聞いてくれてる間はいいけど制御できなくなったら世の中また腐っちゃう。そういう警戒心を抱いていたはずです。曹操の存命中は、司馬懿は飼い殺しにされていました。
なぜ反・司馬懿だと老荘思想なのか
曹操の死後、司馬懿はグングン力をつけてきて、曹氏の有力者やその協力者を一人また一人と抹殺しはじめました。それに対立する、親曹氏・反司馬氏の政治結社が竹林の七賢ですが、さて、ここで最初に提示した問題に戻ってきました。彼らがなぜ老荘思想だったのか。それは、司馬懿が儒者だったからです。
三国志ライター よかミカンの独り言
儒者官僚がそんなに悪かったなんて本当? え~、嘘っこだべさ、そんなの。そうそう。どんどん疑って下さい。何が本当か分らないという猥雑さこそが、三国志の醍醐味。
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