後漢時期において州の統治者は州刺史でした。しかし黄巾の乱で各地は荒廃し、さらに反乱が相次いで天子を自称する者も出現するに至り、朝廷は皇族・劉焉の提案を承諾し、軍権を持つ州牧を設立します。
州牧は劉焉(りゅうえん)が定めたようなものです。これには諸説あり、州牧自体は以前にも存在していました。歴史の中で、州の統治者は刺史になったり州牧になったりころころ変わっています。さらにこのときは、州牧と並立して州刺史も任じられています。とりあえず幽州では皇族の劉虞が州牧に命じられ、劉焉は益州牧に命じられました。当時の益州は黄巾の残党の馬相が大規模な反乱を起こしていて天子を称しています。
劉焉が組織した民兵
精鋭としては曹操軍の「青州兵」が有名です。黄巾の残党で、味方同士の略奪すら認められていたほどの気性の荒い集団でした。劉焉も「東州兵」を組織しています。
実態は荊州などから避難してきた流民の集まりです。しかし劉焉が東州兵を率いて馬相の反乱を鎮めたわけではありません。いくつもの郡を飲み込んだ馬相の乱は、地元の名将・賈龍によって滅んでいます。数万の敵に対し、賈龍は千人ほどの兵で戦ったそうです。劉焉が益州牧として綿竹に赴任してきたのはその後のことになります。劉焉は巧みに地元の豪族を懐柔し、勢力を伸ばしていきました。
異民族である羌とも上手に提携し、さらに宗教団体・五斗米道も取り込み益州の入り口にあたる漢中を塞ぎました。独立の兆しがあるとして賈龍らは異を唱えましたが、劉焉に処刑されています。
李傕(りかく)との闘争
長安に遷都した董卓(とうたく)が呂布(りょふ)に殺されると、その後の都を李傕ら董卓の残党が支配しました。皇帝も李傕(りかく)らに握られています。
劉焉は涼州の馬騰、韓遂らと結託し、長安の皇帝奪取を目論みました。李傕の軍勢に果敢に立ち向かったのが、劉焉の長子である劉範です。次子の劉誕と共に行動を起こしましたが失敗し、処刑されています。このとき劉範の子らを連れて益州に逃れた人物が龐羲です。
龐羲は劉焉の後継である劉璋に命じられて、漢中の張魯の備えのために巴西太守となりました。龐羲の娘は劉璋の長子・劉循の妻になっていますので、龐羲は外戚としても発言力はあったようです。戦場の功績は不明ですが、益州に侵攻してきた劉備に降って営司馬に任じられています。
外戚・呉懿(ごい)
劉備の益州の侵攻に対して総大将として迎え討ったのが呉懿(ごい)です。もともと益州の人ではなく、兗州の生まれです。劉焉を頼って益州に来たと記されています。妹は劉焉の三男・劉瑁に嫁いでいますが、すぐに劉瑁が病死し、劉備が益州を平定した後は劉備に嫁ぎ、皇太后となっています。呉懿は劉備軍と戦った際も武将らをよく統率し、健闘しています。三国志演義では魏延や黄忠を打ち破ってもいるのです。まさに益州における名将といえる活躍ぶりです。
劉備に降ってからもその戦場での経験を買われて、諸葛亮孔明死後は漢中の主将として蜀を守りました。呉懿には謎があり、その時に副将を務めた王平は正史に伝が記されているのに対し、呉懿の名前はないのです。戦功も認められ、外戚でもあった呉懿の伝をなぜ編纂しなかったのか。果たして陳寿の意図はどこにあったのでしょうか。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
劉範も勇将と認められるでしょうが、賈龍、呉懿の方が益州の中では戦上手といえます。その中でも劉璋の代で活躍したとなると呉懿しかいませんね。しかし劉璋の配下には他にも猛将として知られる張任や劉潰、雷銅、厳顔などもします。次回は呉懿よりも強い武将が益州にいたのか、探っていくことにしましょう。
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