広大な中国に成立した王朝である秦と漢は「秦漢帝国」という具合に一括りにされることが多いです。時代が繋がっているというのが大きな理由の1つとして挙げられますが、漢と秦に共通点が多いことも両国が併称される所以でしょう。
しかし、共通点はたくさんあれど何もかもが同じだったり似ていたりしていたわけはないはずです。今回は秦と漢の違いについて徹底分析していきたいと思います。
この記事の目次
秦と漢は似ているところがたくさん
秦と漢は同じく中央集権国家であり、皇帝が中央に君臨することで国としての体制を保っていました。そして、中央集権国家として大切な部分である法制度や財政、政策に至るまで両者には似ているところがたくさんあります。
しかし、よくよく考えなくとも漢王朝をつくり上げた劉邦たちは秦王朝の体制を基本的に真似っこしていたわけだから似ているのは当たり前と言えば当たり前のこと。ただ、漢は決してただの真似っこ国家ではありませんでした。
1番の違いはやっぱり王朝の命数!
漢と秦の大きな違いといえばやはり王朝の長さでしょう。秦は建国後わずか2代、たったの十数年で滅んでしまいました。一方、漢は前漢・後漢あわせて28代、400年もの間中国大陸に君臨。
前漢と後漢の間にひょっこり立った新が十数年存在していたのにもかかわらず少し前までの中学生の歴史の教科書で存在しなかったことにされていたことに鑑みれば秦もぶっちゃけ存在しなかったという扱いを受けても仕方が無いレベルの短命さです。しかし、秦漢両国の王朝の命数にはなぜこれほどまで大きな差がついてしまったのでしょうか。
ワンマン政治の秦と広く臣に意見を問うた漢
秦も漢も中央集権国家でしたが、よくよく見てみると機能している中央の規模が全く違います。秦の始皇帝は猜疑心が強かったらしくワンマン気質だったため、数少ない信頼している側近たちとだけヒソヒソと言葉を交わして政治方針を決定し、実行に移していました。
一方、漢の歴代皇帝たちは広く臣下に政治方針を問い、良い意見があれば積極的に採用しました。
また、秦の始皇帝時代には宰相・李斯が手腕をふるっていましたが、始皇帝が崩御すると全くの腑抜けになり、宦官・趙高に好き放題に振る舞われてしまう始末。
一方、漢の宰相たちは外戚や宦官の圧力に耐えながら皇帝を積極的に補佐し、時には皇帝を強く諫めて政治をコントロールしていました。こういった皇帝の臣下への信頼度の違いや宰相の質の違いが秦と漢の命数に大きな差を付けたのでしょうね。
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秦は僥倖行幸でアピール、漢は慈愛に満ちた政治でアピール
政治というものは民草のために行われるもの。民が増えることは国力増加につながりますし、民が増えると優秀な人材が生まれます。そのため、秦の皇帝も漢の皇帝も民草の心をつかむためにアピールをしています。
秦の始皇帝は天下統一を果たした後、まずは自分の顔を民草に知ってもらおうと何度も行幸を実施しました。
しかし、この行幸の最中に命を狙われたり崩御してしまったりと散々な結果に。あちらこちらに出かけて民草に顔を見せる気さくさがありながら法律で民草を厳しく縛り付けていたためにこのような残念なことになってしまったのでしょう。
他方、漢の皇帝たちは基本的に中央にどっしりと構え、民草を慈しむ政治を心がけて民草にアピールしていました。そのため、皇帝の顔を知る人は少なかったかもしれませんが、民草は皇帝に感謝して暮らしていたと言います。
秦は儒教弾圧、漢は儒教を官学に
秦も漢も法家思想を重んじて法による統治に力を入れていましたが、その法家思想と対照的な思想である儒教に対する両者の考え方は正反対でした。
秦は儒教の思想を徹底的に排斥。焚書坑儒を行って儒教を弾圧し続けました。一方、漢では儒教を積極的に受け入れて官学とし、五経博士を設けたり経典の研究に励んだりしていました。理想を徹底的に排斥して現実だけを見つめ続けた秦と現実をしっかり見つめつつも理想を持つことの大切さを知っていた漢。両国のこういった思想の違いも国力の違いとして現れているのでしょう。
三国志ライターchopsticksの独り言
秦王朝も漢王朝も共に最後は宦官の暴走によって幕を下ろしてしまいましたがその国家としての命数を比べてみればどちらの政治が優れていたかは火を見るよりも明らかですね。しかし、秦は漢のように身近に反面教師にできる国が存在していなかったために漢ほどうまく政治を執り行うことができなかったのかなとも思います。秦と漢の関係は要領の悪い兄と兄の失敗を見てうまく立ち回る弟みたいなものだったのでしょう。
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