夷陵の戦いと言えば呉と蜀が戦い、蜀が敗北した戦いということは皆さんご存知ですね。
そんな夷陵の戦いは多くの三国志ファンが注目して、どうして負けたのか、一体何が敗因だったのかと楽しくも激しい論争を交わしています。そこで今回は筆者なりの夷陵の戦いを考察して、呉に対してどうしたら良かったのか、夷陵の戦いを勝つにはどうするべきだったのかを語りたいと思います。
この記事の目次
夷陵の戦いの敗因を簡単に振り返ってみよう
まずは良く言われる夷陵の戦いの敗因を挙げてみましょう。
勝ちすぎた
夷陵での戦いの前に、劉備は数多くの呉の拠点を落とし続けていきます。一見すると絶好調に見える状況ですが、これは後々まで尾を引いてくる数々の状態を引き起こす原因の一つとなってしまいます。
油断していた
勝ちすぎたこともあり、また呉の総大将は陸遜という当時何の実績もなかった武将。このことから劉備たちは呉の軍勢に対して油断があったと思われます。
補給路が伸びすぎた
蜀の地は山の奥の奥にあります。そこを出てから350キロに及ぶ補給路を置いて戦わなければならなかったのです。そこに兵や意識を回さなければいけない、維持しなければならない補給路が長すぎたと言えるでしょう。
水軍、長江の警戒ができていなかった
陸遜の火計は蜀の後方に在る補給拠点を長江から奇襲しました。この水軍への警戒、長江の警戒ができていなかったのも大きな敗因の一つであると思います。
これらが良く挙げられている夷陵の戦いの蜀軍の敗因です。しかしこの敗因は「避けられる敗因」だったのでしょうか?
敗因は「避けられる敗因」だったのか?
敗因を避けることができれば勝つことができる、しかし夷陵での敗因は避けようと思って避けられた敗因なのでしょうか?
筆者は必ずしもこれらの敗因は全て避けることができた、と言い切れるものではないと思います。
その理由を解説していきたいと思います。
勝ちすぎた
勝ちすぎたと言っても蜀の地は山の奥の奥、出撃するには呉の城を落としていくしかありません。落としていくとなると勝つしかなくなる、つまり勝ちすぎたと言っても、勝たねばそもそも戦いにならなかったと思います。
補給路が伸びすぎた
樊城の戦いで、関羽は補給路を確保できずに敗北しました。劉備はそれを踏まえてしっかりと補給路を確保しました。距離を考えれば補給路は伸びるのはどうしようもないので、これは最終的には結果論と言えます。
水軍、長江の警戒ができていなかった
長江は川とは言え、幅が1キロほどもある広い川です。また蜀軍は立地もあって、そこまで水軍が増強されていません。しかも補給路を確保しなければいけない、これだけでもかなりの兵を割かなければいけません。これを踏まえて考えると、そこまで長江の警戒を万全にするというのは不可能に近いと思います。
これらを見て頂ければ分かると思いますが、夷陵の戦いでの敗因でどうにかできそうなのは「油断しない」くらいなものになってしまいます。夷陵の戦いを勝つにはどうやればよかったのか…これは、簡単に答えの出せる問題ではないと言うことが分かって頂けると思います。
夷陵の戦いを「勝つ」には…そもそも、勝てるのか?
では夷陵の戦いを勝つには、どうしたら良かったのか?
結論から申し上げますと、夷陵の戦いを勝つのは非常に難しいと思います。繰り返すようですが敗因を取り除くということが非常に難しいからです。
しかも敗因を一つ取り除けたとしても、例えば長江の警戒を万全にしたとしても、そうなると今度は前線の兵の数が足りなくなる、実に八方塞がりの戦いであったと思います。これは蜀の地が守りやすくても攻めにくい、他国に戦いを仕掛けるには非常に厄介な土地であることが関係しています。
やはり平原、しかも中華の真ん中に存在する足掛かり、荊州を樊城の戦いで失ったことは蜀にとって大打撃と言わざるを得なかったでしょう。しかし夷陵の戦いを勝つには、が難しくても、夷陵の戦いの「被害を抑える」ならできたのではないか、とも同時に思います。
「負け」には「良い負け方」があるということ
夷陵の戦いの敗因の一つに「油断」があります。
勝ちすぎただけでなく、敵を侮り過ぎた。
それ故に夷陵の戦いでは、大きく、再起不能になるほど負けてしまいました。
では再起不能になるほど負けていなければ、どうでしょうか?夷陵の戦いは、呉にとっても正念場でした。
蜀を追い返すだけでなく、蜀を再起不能にまで追い込む、それをやったからこそ呉はここで踏みとどまれたのです。そのためには肉を切らせて骨を断つ、敗北したように見せかけ、一度しか効果がないであろう奇襲の火攻めをより効果的に行う、蜀の全滅を狙っての戦いです。
そこには蜀の油断もまた、織り込まれた材料の一つでした。その油断がなく、せめて被害を抑えられたなら…寧ろそこから、今までのように劉備は立ち直れる可能性もあったのではと思います。
そしてその被害を抑えるためには、何はなくとも油断と侮りをなくすべきだった。
「法正が生きていれば、ここまでの敗北は無かった」
夷陵の戦いで諸葛亮がこぼしたように、あの法正が生きていても夷陵の戦いの敗北は避けられなかった。しかしより上手く負けることはできた、被害を抑えることはできたのではないかというのが、筆者の考える夷陵の戦いを「勝つには」であると思います。
三国志ライター センの独り言
夷陵の戦いを勝つには、簡単なようでいて実はとても難しいお題です。この戦いをどうやればよかったのか、は数多くの歴史好きの皆さんが考えて討論してきました。その夷陵の戦いについて、今回は私なりの考察やその材料などをまとめてみました。
ぜひこの記事を見た皆さんも、夷陵の戦いを勝つには、どうすれば良かったのかを考察してみて下さいね。
参考記事:https://ja.wikipedia.org/wiki/夷陵の戦い
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