諸葛亮の南蛮平定には楊鋒の力も関わっています。諸葛亮の智謀知略と孟獲の豪傑っぷり、あなたはどちらが好みでしょうか。それでは三国志演義に登場する楊鋒について紹介していきます。
諸葛亮、王手を掛ける
朶思大王の手を借りて、王平軍を毒の泉に誘い込んだ孟獲。諸葛亮が見つけた仙人の手によって兵士は一命をとりとめます。ここで一気に孟獲を追い詰めたい諸葛亮は、どんな策を練ったのでしょうか。
南蛮に地の利がない諸葛亮は、現地の駒を存分に利用しました。それは儒教の根付いた中国人の心を捕らえる作戦でした。
楊鋒のコスプレ作戦とは?
毒の泉を諸葛亮に突破された孟獲。もはや万事休すです。周囲は、わずかの兵に朶思大王と弟の孟優しかいません。さらに敵兵は毒の泉で体力を落としているどころか、血気盛んな様子で攻めてきました。
しかし、その孟獲軍にも光が見え始めました。朶思大王が治める隣村の楊鋒が増援部隊として到着したのです。不利な状況で心強い味方を得た楊鋒、孟獲軍に大いにもてなされるのです。
一般的に古代中国で夜の宴は事件の前兆を意味します。ほろ酔い気分の孟獲の元に楊鋒と息子たちが近づくと、お礼に美女による剣舞を披露させると申し出ます。ほどなく、数十名の南蛮娘たちが孟獲のいる天幕へと入り、剣を振るってたおやかな踊りを見せます。突然、現れた美女たちに孟獲は、目じりを下げます。
しかし、それが楊鋒の仕組んだ罠だったのです。楊鋒の息子は、孟獲と孟優兄弟に一献捧げると一気に飲み干します。その瞬間、楊鋒の息子は孟獲と孟優を跪かせ、縄にかけてしまいます。
踊り手だと思っていた美女は剣を構え、彼らを包囲。警戒を強めます。慌てて同席していた朶思大王は逃げますが、楊鋒自らの手によって捕らえられます。孟獲はお縄になったまま楊鋒に理由を尋ねます。
「殺すのは勘弁してくれ。わしら村の長老なのに、どうして捕まえたりなんかするんだ。無実だ!」
すると楊鋒は
「何を言っている。諸葛亮様は命の恩人だ。反乱を起こしたのは、お前たちの方だろう」
これが孟獲、五回目の捕縛でした。孟獲の身柄は諸葛亮の元に引き渡され、事件は終結します。
楊鋒が同族の孟獲を捕らえた理由
同じ南蛮エリアに住む楊鋒が孟獲を捕まえたことに驚嘆した読者もいるでしょう。
しかし、これまでに孟獲は4度も諸葛亮に捕まり、そのたびに釈放されています。たいていの侵略者であれば、リーダー格の人物は殺されます。
それが三国時代の常識でした。
諸葛亮は、その常識を覆したパイオニア。何度捕らえても孟獲たちが心から降参の姿勢を見せない限り、南蛮を治めることができないと考えていました。
最初は楊鋒も諸葛亮に反抗していました。しかし、抵抗が失敗に終わり、諸葛亮の軍に捕まります。きっと楊鋒は死を覚悟したのでしょう。謀反を起こせば、処刑されるのが当たり前の時代ですから、楊鋒の考え方が当時の一般常識でした。
そこで軍師・諸葛亮のとった行動は無罪放免という判断でした。償いきれないほどの恩情を受けた楊鋒はいたく感動し、諸葛亮を命の恩人と思うようになるのです。こうした経緯から楊鋒は偉大なる恩人・諸葛亮に手向かうとは何事かと孟獲に敵意を向けるようになります。
楊鋒が朶思大王征伐で協力することを見越して、諸葛亮が解放したのかはわかりません。しかし、南蛮という今まで足を踏み入れたことのない外国では、現地の小さな権力者を取り込み、大きな権力者を倒すのが上策と諸葛亮は考えたのでしょう。
三国志ライター上海くじらの独り言
ストーリーだけ追うと楊鋒は南蛮の裏切り者のように感じる読者もいるかもしれません。しかし、劉備が天に召されたのをチャンスとして、蜀に反乱を企てたのは孟獲です。
野心があるがゆえに取った行動とも言えるでしょう。そして、その野心を買ったのか、懐柔策かは分かりませんが、孟獲は蜀で高い地位を得ます。一方の楊鋒は、その後の三国志演義に登場することはありません。
作者は朶思大王攻略の伏線として、楊鋒を登場させたのかもしれませんね。
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