漢王朝は皆さんもご存知の通り前漢と後漢に分かれています。なぜ前漢・後漢に分かれているかというと、王莽によって一度滅ぼされているからです。それでも不死鳥のごとく蘇った漢王朝。
ところが、やっぱり衰退の一途をたどり再び滅亡してしまいました。前漢も後漢もそれぞれ200年という長い時代を築いたのに、なぜ滅んでしまったのでしょうか?
今回はその原因を探ってみましょう。
正直、劉邦が嫁にした奴がマズかった…
呂后
実は漢王朝の破滅の足音は劉邦が漢王朝を立てる前から既にヒタヒタと聞こえ始めていたのかもしれません。
その足音の正体は劉邦の妻・呂雉です。
呂雉は後に皇后となるので人々には呂后の呼び名で知られています。彼女は劉邦が布衣の身であるときから連れ添っている所謂「糟糠の妻」なのですが、正直彼女については、彼女だけはどこかでポイッと捨ててしまった方が良かったのかもしれません…。
劉邦が崩御し、劉盈が即位すると呂后は皇太后となったのですが、劉邦の後継者争いのときライバルとなった者たちを次々と暗殺・処刑。趙王となった劉如意の母・戚夫人については両手両足を切り落として目玉をくり抜き、更に耳と声を毒薬で潰して厠に住まわせ
「人彘(人豚)」と呼んで嘲笑ったのだそう。
この極悪非道な呂后の振る舞いに息子の劉盈は落胆して自暴自棄になり若くして亡くなってしまいます…。しかし、呂后は実の息子を失ってもあっけらかんとしており、次の皇帝を選び始める始末。呂后は自分の血を引く幼い皇帝を立て、更に身内を重役に付けることによって外戚政治を展開します。
呂后の横暴さには拍車がかかり、自分の敵になりそうな劉邦の子どもたちを暗殺したり気に入らない皇帝を廃位して新しい皇帝を立てたりするなどやりたい放題。彼女のこういった振る舞いが後の人々にも悪い意味で受け継がれることになってしまったのでした…。
儒教による統治が前漢滅亡を招いた!?
武帝が儒教を国教としてから、官僚たちの中に徐々に儒家が増えていったのですが、このことが前漢の滅亡の原因の一端になってしまったとも考えられます。
儒教は徳による統治を推奨する学問です。そのため、皇帝も徳による政治を行おうと頑張るのですが何せ徳というものはつかみどころのないあやふやな存在。そのため、その定義付けから議論を始めなければならず政治の場は大混乱してしまうことに。
そんな場所で活躍できたのは儒教に明るい者たちと皇帝と深い関係にあった外戚や宦官だけでした。そうなると力を持てるのは外戚であり儒学に明るい者、もしくは宦官であり儒学に明るい者です。ただ、儒教では親を重んじる思想があるので宦官よりも外戚の方が優勢だったに違いありません。そのような状況の中で台頭してきたのがあの王莽でした。
外戚であり儒学にも明るかった王莽はあえて幼い皇帝を擁立し、自ら仮皇帝や摂皇帝となって政治を専横。ついに帝位を簒奪して前漢を滅ぼしてしまったのでした。
後漢王朝は即位する皇帝が皆若すぎたし早死にしすぎた
赤眉の乱などの農民反乱が勃発し王莽による怪しい儒教国家・新は十数年で滅ぼされ、再び返り咲いた漢王朝。光武帝の力によって不死鳥のごとく復活して見せたのですが、とにかく後漢王朝で皇帝となった人たちは若すぎました。
光武帝と明帝以外は全員20歳未満での即位。中には生後100日の赤ちゃん皇帝も!そんな幼い皇帝を操っていたのはやっぱり外戚や宦官でした。外戚が嫌になった若い皇帝が宦官に泣きついて外戚が駆逐され宦官が優勢になったり、宦官の悪政に困った皇帝が外戚に泣きついて
宦官が駆逐され外戚が優勢になったり…。外戚と宦官によるシーソーゲームが繰り広げられ、後漢王朝の政治は混迷を極め、民草の不満が募る大きな原因となってしまったのでした。
外戚と宦官がほしいままに政を行いたいがために幼い皇帝を立てまくったのは勿論大問題ですが実は後漢王朝の皇帝たちはとにかく皆早死にだったのである意味仕方の無いことだったのかもしれません。
40歳以上年を取ることができたのは初代光武帝を除くとまさかの最後の皇帝・献帝だけだったそうな。まぁ、彼らが早死にしてしまったのは単に病弱だっただけではないような気もしますが…。とにかく後漢は闇が深すぎます。
三国志ライターchopsticksの独り言
前漢王朝も後漢王朝も主に外戚や宦官の専横による内政の混乱によって衰退していきましたが、その萌芽は劉邦が呂雉を娶ったときに既にあったのでしょう。そこに良くも悪くも儒教というエッセンスと皇帝が早逝するという呪いが加わり、更なるカオスが…。…本当に悪い意味で歴史が繰り返している王朝ですね。
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