後漢や三国時代に呼び名や役目が変わった司徒。なじみのない言葉なので、人名なのか地位を表すものなのか分かりづらいのが本音。ここでは中国の司徒の役目や歴史について紹介していきます。
始まりは古代中国・舜の時代
当初、司徒は地方役人のトップを示す職位でした。前漢の時代になると名称が丞相に変更されます。ところが前漢から後漢の時代になると三公と呼ばれる大臣のトップ3の役職名が「大司馬・大司徒・大司空」となり、再び司徒の名称が復活するのです。
三国時代の司徒
三国時代には「太尉、司徒、司空」が大臣のトップ3となります。いずれも正一位というプレミアムな地位でしたから、皇帝以外は誰も逆らえませんでした。
やがて蜀漢、魏、呉の三者鼎立となりましたが、それぞれの国に司徒が存在しました。
最初に司徒を置いたのは魏で「華歆」が西暦220年~226年の間、司徒の役目を果たしています。それまで相国と呼ばれていた官位を曹丕が司徒に改め、華歆を役職に。
ところが軍事の会計担当は尚書という役職にまかされ、司徒の力が少し弱まります。何を隠そう司徒の役目は国の収入や支出を管理すること。乱世の時代の軍事費を操作できないとあっては、司徒の名折れです。
次に司徒を置いたのは蜀漢で西暦221年のことでした。わずか一年あまりですが、「許靖」という人物が就いています。
劉備が皇帝の座に就いたときに司徒に任命され、三公に列せられました。
もっとも遅かったのは呉の国です。しかし、三国の中では一番長く国を運営。西暦268年の話で「丁密」が司徒として5年間、役目を果たしました。
同じ時期に魏は晋にとってかわり、「司馬望」が司徒に就いています。
晋は家族経営の国家
晋の礎を築いた司馬懿。実は司徒となった司馬望のおじさんに当たります。国家の財布を甥が握り、トップに叔父が就くという家族経営的な晋という国家。まさに司馬一族の独壇場だったのです。
具体的に司徒は何をしたの?
時代によって呼び名や役目が変化しますが、前漢時代の大司徒は国家の財政管理していました。現在の日本の財務省や日本銀行のように前漢時代にも似たような組織がありました。
そのトップが大司徒だったのです。つまり、日銀総裁や財務大臣のような存在だった思えばいいでしょう。金や銀といった言葉が入っていないので、お金を管理していたとは想像しづらいですね。
しかし、貨幣として金や銀が出回ったのは後の話で、「司」という字に偉い人みたいな意味が込められています。いつの時代も人を動かすにはお金が必要だったのです。
チベットの大司徒・仁波切
さて、三国時代の話をされてもピンとこない読者もいるでしょう。しかし、チベットには大司徒・仁波切と呼ばれる役職名が現在も残っています。「大司徒」が役職名で、「仁波切」は個人名のようなイメージです。初代は明の時代に任命された大司徒・却吉嘉辰に始まり、現在まで連綿と引き継がれています。
では、チベットでそろばんを弾いているのかと思いきや、そんなことはなく菩薩の化身というありがたい存在になっています。もはや人智を超えた存在です。まさか、相国から司徒にイメージアップを図った曹丕は、21世紀に司徒の役目が菩薩の化身にまでグレードアップしようとは思いもしなかったことでしょう。
三国志ライター上海くじらの独り言
古代中国から続く司徒という役職。三国志には軍師・司馬懿も登場するため頭がフリーズしてしまう読者もいるはずです。しかし、 太尉・司徒・司空という3つの役職があったことを理解できれば、自然と頭に入ってきます。名前からは想像しにくいですが、国の財政を担っていたと覚えておけばいいでしょう。
同時に皇帝と密接な関係にあった人物が司徒に就いていたのも事実。武将ばかりでなく、こういった内政事情にも精通していると一目置かれますよ。
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