蜀の天才軍師・諸葛亮孔明。『三国志』を知っている人でその存在を知らない人はいないはず。そんな諸葛亮は三人兄弟。長男が諸葛瑾、次男は諸葛亮、三男は諸葛均です。長男の諸葛瑾が呉の重鎮であることも、『三国志』ファンなら常識でしょう。
三男の諸葛均は諸葛亮と長らく生活を共にし、正史『三国志』では諸葛亮と共に蜀に仕えたとされています。蜀でも呉でも活躍している諸葛兄弟ですが、なんと諸葛一族は魏にもいたのです!
諸葛亮のご先祖様
ところで、諸葛一族の系譜はどこから始まっているのでしょう。諸葛亮のご先祖様は諸葛豊であるとされています。諸葛豊は前漢で活躍した人物でした。
大変厳しく真っ直ぐな性格であることで有名で、元帝に見出されて司隷校尉に任命された際には、朝廷内の重役たちのお目付け役として悪事を働いた大臣がどんな人であろうと遠慮せずに弾劾し、その職務の本分を果たしていました。この厳しさは諸葛亮にしっかり受け継がれていますね。
正義の心が仇となった諸葛豊
しかし、そんな諸葛豊の完璧主義は、彼を不幸に陥れることになってしまいます。ある時、元帝の外戚・許章が賓客と共に罪を犯したということが諸葛豊の耳に入ります。諸葛豊はさっそく許章を取り調べようとしたのですが、許章は元帝の元に走り、泣きついたのでした。諸葛豊もすぐに後を追いかけ、元帝に許章を引き渡すように願い出るのですが、身内を手荒くあしらわれた元帝は大激怒。
これには諸葛豊も動揺しましたが、自分の信念を曲げることのできなかった諸葛豊は、官を辞したいと申し出ます。しかし、元帝は許してくれません。結局、司隷校尉として仕官し続けますが、元帝は自分の言葉を取り上げてくれません。更に、諸葛豊が春と夏にしか仕事をしていないと重鎮たちが口々に漏らしたことで、元帝は諸葛豊を城門校尉に左遷しました。
それでも、人の悪事を許せなかった諸葛豊は光祿勳・周堪と光祿大夫・張猛の悪事を告発。ところが、元帝は諸葛豊が仕返しのために両者を告発したのだと受け取ってしまいます。元帝は年老いた諸葛豊を罰することも忍びないので、諸葛豊の官位を剥奪し庶民に落としたのでした。諸葛豊は無位無官となり、自分の家で息を引き取りました。
魏にも諸葛一族がいた!
そんな諸葛豊の子孫である諸葛兄弟は呉と蜀でそれぞれ目の覚めるような活躍を果たしました。しかし、諸葛一族は魏にもいたのです。その名は諸葛誕。諸葛亮の従弟であるとされています。
東晋時代に編まれた説話集『世説新語』では、龍にたとえられた諸葛亮、虎にたとえられた諸葛瑾とともに、狗(犬)であるとたとえられています。諸葛亮・諸葛瑾と比べるとやや劣るように思われますが、諸葛誕はその勇敢さを讃えられているのです。
絵に描いた餅
諸葛誕は魏の中央の名のある官職を歴任し、似たような経歴を持つ人たちと共に「四聰八達」と称せられていました。ところが、天狗になっている諸葛誕を見て、諸葛誕を中央にのさばらせておいてはいけないと言い出す者が現れます。これを受けて、明帝は「そのような名声は絵に描いた餅のように食べることができず、腹を満たすことはできないのだぞ」と諸葛誕を批判し、官を剥奪してしまったのでした。
諸葛誕の乱
その後、明帝が崩御して曹爽が実権を握るようになると、諸葛誕も再び中央に召し上げられました。しかし、曹爽は司馬懿によって失脚させられてしまいます。
再び路頭に迷うかと思われた諸葛誕でしたが、実は司馬懿とは姻戚関係にあったため、そのまま司馬懿に用いられることになったのでした。ラッキーな諸葛誕でしたが、曹爽の一族と親密な関係にあったことや、かつての同僚たちが滅ぼされていったことから、次は自分が殺されるのでは?と疑心暗鬼に陥っていってしまいました。ある時、諸葛誕は三公のひとつである司空に任命されます。この大出世に通常であれば舞い上がるところですが、疑心暗鬼を生じていた諸葛誕は、これを罠だと勘違いしてしまいます。
自分の命が狙われていると勘違いした諸葛誕は反乱軍を起こしたのでした。呉からの援軍も得て善戦するものの、援軍が撃退されてしまったり、計略にかかり魏に寝返る者が現れたりで、戦局はどんどん魏に傾いていってしまいます。食料不足に陥った諸葛誕の反乱軍からは、投降者が続出。窮鼠猫を噛むというわけではありませんが、やけくそになった諸葛誕は城から出て敵に突っ込みます。
しかし、諸葛誕はあっけなく討ち取られてしまったのでした。その後、諸葛誕の首は洛陽に送られていったのだそうです。そんな諸葛誕でしたが、数百人の兵たちが諸葛誕の死後も降伏せず殉死したのだとか。諸葛誕もそれなりに人望はかなり厚かったようですね。三国それぞれで名を馳せた諸葛一族。その子孫たちは案外私たちのそばにもいるかもしれませんよ。
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