韓遂(かんすい)とタッグを組んで曹操(そうそう)に反旗を翻し潼関(どうかん)の戦いでは曹操をあわや討ち死にまで追い込んだ馬超(ばちょう)。
しかし、曹操軍の軍師、賈詡(かく)の黒塗りの手紙によって、両者は仲違いし、その隙を突いて曹操が勝利する事に成功しました。ですが、本当に賈詡の手紙が二人の仲を決定的に裂いたのでしょうか?いいえ!実は、それ以前に不信の種は撒かれていました。馬超に猜疑心を生んだ原点は、彼が漢語を話せない人だからだったのです。
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馬超は、遠征以外で関中から出たことが無いド田舎者
馬超に関する記録を読むと、意外な事実に突き当たります。それは、馬超が長安なり洛陽なりに留学した事がないという事実です。馬超については、鍾繇(しょうよう)の説得で曹操サイドについて、高幹(こうかん)や郭援(かくえん)と戦いこれを撃破した記載があるだけでそれ以外では、長安より東に出ている様子はありません。
馬超は176年の生まれであり8歳では黄巾の乱に遭遇し、14歳頃には洛陽は董卓(とうたく)によって焼かれ、漢朝が騒乱状態で、それ以前のように推挙されて洛陽なりで郎に取り立てられ、漢族の居住圏で暮らす経験を得ていません。
それは、同時に馬超が父の馬騰(ばとう)のように漢人の中で過ごし漢語に触れ合う機会が無かった事を意味します。つまり馬超は漢語が、かなり不自由だった可能性があるのです。
羌族の人望を得ていた馬超は常に異民族の言葉を駆使した
馬騰は羌族と漢族の混血なので、馬超はクウォーターですが、彼は羌族の人気を集めていたとされるので、日常は羌族の言葉で通していたのではないか?と考えられます。ですので、馬超の周辺に漢語を使う人は少なく、それは必然的に馬超が漢語を習得する機会を奪ったで事しょう。
韓遂が曹操と交馬語を交わした時、馬超の言語コンプレックスに火が・・
西暦211年、馬超は、曹操が漢中の張魯(ちょうろ)を討伐する方針を立てたので、明日は我が身と恐れ、独立を保持する為に曹操に背いて、万年反抗期の韓遂と父子の契りを結んで潼関(どうかん)の戦いを起こします。馬超が率いる羌族の騎馬軍団は、圧倒的な力で曹操を追い詰めますが、曹操も陣地を築いて対抗したので戦線は膠着状態になります。
そこで、和睦の為に行われたのが、韓遂、馬超と曹操の会見ですが、最初に会談をしたのは、韓遂と曹操でした。二人はかつて洛陽で共に過ごした旧友でしたが、曹操は、異民族の言葉を話せないので、当然、バイリンガルの韓遂が漢語を使って会話する事になります。この時、両者は馬上で、身振り手振りを交えて旧交を温め、笑い声が漏れる程であったと言われています。
しかし、馬超は漢語が分かりませんから、韓遂と曹操の会話が理解できません。
「あんの二人、なにを楽しそうに話してるべ?いーくら、和睦の話っちゅーても、仲が良すぎんでね?もすかして、二人でオラを騙す計画でも、立ててんのが?」
※訛りはイメージです。
いくら邪推しても、漢語が分からない馬超にはどうする事も出来ません。そして、韓遂に曹操と何を話した?と聞いても、
「なーも、昔、洛陽に居た頃の思い出話をしてただけだべよ」と笑ってはぐらかされました。
(くそっ、韓遂め、いーなかもんだと思っでオラを馬鹿にしただな)こうして言語コンプレックスから来る不信の上に、賈詡の黒塗りの手紙が重なり馬超と韓遂の関係は崩壊したのです。
山陽公載記に馬超の漢語下手を見る
その後、色々あり落ちぶれた馬超は、劉備(りゅうび)の世話になるわけですが、そこで、劉備の厚遇を良い事に、劉備を気安く字で読んでしまい、激怒した関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)に殺されそうになったという話が「山陽公載記」にあります。
これは荊州にいて益州に来たことが無い関羽が出ているので信憑性が薄いですが馬超が片言の漢語しか出来ず、婉曲的な表現が出来ない事で漢人層には「馬超は生意気」という印象を与えた事が下敷きではないでしょうか?このような悪評判を受けて、馬超は反省し、口数少なくしたので、今度は、人目には謙虚に見えたのかも知れません。
三国志ライターKawausoの独り言
言語は個人によって習得の振幅が大きく、一年でペラペラになる人も五十年住んでも、日常会話も出来ない人もいます。それで考えると、馬超は後者であり、しかも若い頃に洛陽や、長安に滞在する事も無かったので、余計に漢語習得のハードルが上がってしまったのではないかと思います。その意味では馬超は関中で生まれ益州で死んだ群雄割拠の時代ならではのご当地ローカル武将だったと言えるでしょう。
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