蜀の名将といえば、五虎将軍の関羽や張飛、趙雲などの名前が浮かんできますが、蜀の名将と言われる人達に選ばれるのは彼らだけではありません。
夷陵(いりょう)の戦いで致し方なく魏へ投降することになった黄権(こうけん)も、蜀の名将の一人に数えることが出来るでしょう。また蜀の丞相は、諸葛孔明だけが凄かったのではなく、孔明の跡を継いだ蒋琬(しょうえん)も名宰相に数えることができる人物です。
今回は、蜀の名将の一人に数えることができる黄権の息子・黄崇(こうすう)と、蒋琬の息子・蒋斌(しょうひん)の二人に、スポットを当ててみたいと思います。蜀がもう少し長く生き延び、黄崇と蒋斌の二人に経験を積ませることができれば、二人も名将になれたかもしれませんでした。
黄権の息子は父と別れて蜀で暮らす
黄権は、夷陵の戦いで呉軍が大勝利したことで、退路を失ってしまいます。そして黄権は、致し方なく蜀の敵であった魏へ逃亡して降伏。曹丕は、黄権の降伏を受け入れて、将軍の位を与えたりしてかなり厚遇したそうです。しかし黄権の家族は魏へ逃亡せずに蜀で生活をしておりました。
蜀の文官や将軍達は劉備へ「裏切り者の黄権の家族を皆殺しにしてしまえ」と進言。劉備はこの進言を聞いても採用しないで、「私が黄権の進言を採用しなかったから、夷陵で大敗北することになり、魏へ降ったのだ。全て私のせいだ。だから黄権の家族に危害を加えることはならん」と黄権の家族を守ったそうです。劉備のおかげで蜀に残った黄権の息子・黄崇は、迫害されることなく成長し、蜀の国家へ就職することができました。
諸葛噡と一緒に討ち死に・・・・
黄崇は蜀の国家に就職。しかし黄崇は、蜀の国家で色々な経験を積むことができないまま、司馬昭が発令した蜀軍討伐軍を向かい討つ事になります。蜀軍は、姜維率いる軍勢が一生懸命剣閣(けんかく)で防衛。
そのため蜀討伐軍の総大将・鍾会(しょうかい)は、魏軍を蜀の内部へ侵攻することができませんでした。だが鍾会の部下であった鄧艾(とうがい)は別働隊を率いて、蜀の防衛が薄い内部へ侵入した事で、蜀の国が危機的状況を迎える事に。蜀の皇帝・劉禅は、諸葛噡(しょかつせん)と黄崇へ命令して、首都の最終防衛ライン・綿竹(めんちく)で防ぐよう命令。黄崇は、軍勢を率いて諸葛噡と綿竹関へ入って、鄧艾率いる別働隊と激戦することになります。
結果は皆さんが知っている通り、鄧艾率いる魏軍の猛攻に合って 綿竹関は陥落。黄崇は、諸葛噡と一緒に最後まで戦い抜いて討ち死にしてしまうのでした。もし黄崇が色々な経験を積んでいたら、忠義心に溢れた名将になれる素質が、あったのではないのでしょうか。
鍾会(しょうかい)を感心させた蒋斌
蒋斌は、蜀の名宰相の一人に挙げられる蒋琬の息子です。蒋斌は蒋琬の死後、将軍の位を与えられ、鍾会率いる魏軍が蜀へ侵攻してきた時、蜀の朝廷から漢城(かんじょう)の防衛を命令。蒋斌率いる蜀軍は、鍾会軍を迎撃するために城の防衛を固めておりました。
そんな中、鍾会から「君のお父さんのお墓参りをしたいから、お墓の場所を教えてくれないか」と手紙がやってきます。蒋斌は、鍾会からの手紙を無視することもできましたが、そんな無粋なことをせずに返信。蒋斌は鍾会へ「父へのお墓参りをしたいとの手紙を受け取りました。父が亡くなった時に遺骸を涪へ埋葬しました。あなた様が父のお墓を見舞ってくれるのであれば、父も嬉しく思っていると思います。ありがとうございます。」と感謝の言葉を送るのでした。この手紙を受け取った鍾会は、非常に喜んで「さすが、名宰相・蒋琬殿の息子だな」と言ったとか言わないとか・・・・。
蒋斌は劉禅が降伏した後、鍾会へ降伏。鍾会は、上記の手紙のやり取りをした際に蒋斌を気に入って、友人に接するような態度で蒋斌を受け入れたそうです。
三国志ライター黒田レンの独り言
蒋斌は、鍾会を唸らせるほどの美麗な文章を書いており、もしもっと経験を積んでいれば、兵を率いる将軍としてではなく、文官として成長していたかもしれません。蜀の後期は人材が払拭していましたが、もし蜀にもう少し時間があれば、かなり優秀な人材が育ったのではないのでしょうか。
参考 ちくま学芸文庫 正史三国志蜀書 井波律子訳など
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