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【九州三国志】『三國志』は中国だけじゃない!日本の三国志事情 Part.1

2016年5月15日


 

三国志 麻雀

 

三国志といえば皆さんは・蜀・呉の三国が中華の覇権を争った時代の事を言います。

しかし中華にだけ三国志があったわけではありません。

日本にもこの三国志に似たような状況があった事をご存知でしょうか。

日本の戦国時代の九州地方にも三国が並びたち、

九州の覇権をかけて戦っていた時代がありました。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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日本の三国志っていったい何

孫権日本

 

日本の戦国時代、九州地方は豪族が並びたちます。

その中でも勢力を拡大した三国が拮抗し、九州の覇権を争います。

三国が争っていることから「九州三国志」と

しばしば言われている事があるのをご存知でしたか。

 

九州三国志とは

鹿児島

 

九州三国志とは肥前(ひぜん)・肥後(ひご)に加え、

筑前(ちくぜん)・筑後(ちくご)の半国

(現在の長崎県・佐賀県・熊本半国・福岡半国)などを

勢力下におさめた肥前の熊と言われた竜造寺(りゅうぞうじ)家。

豊前(ぶぜん)・豊後(ぶんご)を勢力下におさめ、

筑前(ちくぜん)・筑後(ちくご)の半国を加えたキリシタン大名である

大友(おおとも)家。

最後に薩摩(さつま)・日向(ひゅうが)・大隅(おおすみ)(現在の鹿児島県全域)

の国を治め、日本一の強さを誇った薩摩隼人(さつまはやと)を率いる島津家。

この三国が九州統一の覇権をかけて戦いを繰り広げたことから、

九州三国志と言われています。

 

肥前の熊・竜造寺隆信ってどんな人

龍造寺隆信

 

九州の三国を紹介しました。

次に九州の覇権を争った大名の紹介をしていきます。

まずは肥前の熊と言われた竜造寺隆信(りゅうぞうじ)をザクッと紹介していきます。

竜造寺隆信を一言で表すと冷酷非道な人物です。

隆信は爺様の跡を継ぐことになりますが、

幼少期に一度、竜造寺家を滅ぼされている事から周りの家臣や豪族達を信じませんでした。

そのため、少しでも疑いのある家臣をすぐに処断しておりました。

彼の冷酷非道さを伝えるエピソードがあります。

竜造寺家を助けてくれたある豪族が敵である島津家に内通していた事実が判明。

隆信は激怒し、その豪族を宴会に誘い出して殺害します。

その後処断した豪族の一族全てを殺害し、反乱を起こす可能性を断ちます。

恩がある豪族でも容赦なく殺害する隆信の冷酷さがうかがえます。

しかし竜造寺家が再興された時、

豪族と同じくらいの勢力しか持っていなかった小大名でしたが、

隆信が竜造寺家当主となると冷酷非道な君主であったが、

勢力を一気に拡大した事は事実であるため、彼の評価には賛否両論があります。

竜造寺家は三国志の立ち位置でいうと呉に近いと思います。

 

キリシタン大名で一時は九州最大の勢力を誇っていた大友宗麟

 

 

九州最大の勢力を築き九州三国志の中でも最強であった大友家当主である

大友宗麟(おおともそうりん)。

彼は戦国時代では数少ないキリシタン大名として有名な人物ですが、

彼が大友家を継ぐ際、家督争いが勃発。

弟と母を殺害して大友家の当主となります。

当主となってからは家臣の裏切りなどが起き、厳しい状況に幾度も立たされますが、

その苦境を乗り越え、大友家の地盤を固めます。

宗麟は大友家の地盤を固めた後、筑前・筑後に勢力を拡大し、

九州地方における覇者として君臨することになります。

読者の皆さんが知っている中国の三国志でいうと魏の立ち位置です。

 

九州最強の兵を抱える南九州の雄・島津義久

島津義久

 

 

薩摩(現在の鹿児島県)を本拠地として、薩摩隼人と言われる精強な兵を持つ

島津家当主・島津義久(しまづよしひさ)。

彼は幼少期おとなしく控えめな人でした。

しかし祖父から「薩摩・大隅・日向を治めることのできる人材はこの子だ」と

幼少期からすでにその才能があり期待をかけられておりました。

父貴久(たかひさ)が亡くなると、島津家の当主として君臨。

彼には四人の兄弟がおり、

次男義弘(よしひろ)は勇猛果敢で、戦略に優れ、

戦の総大将にふさわしい能力を持っておりました。

三男歳久(としひさ)は智謀に優秀で、

四男家久は戦術に優れておりました。

兄弟4人は協力して島津家の勢力拡大に励んでいきます。

三国志でいうと蜀の立ち位置に近いかもしれませんね。

 

 

一気に勢力を伸ばす大友家

 

鹿児島

 

宗麟(そうりん)は後継者争いに勝利し、大友家の当主となると勢力拡大を図ります。

まず、中国地方の覇者で九州に近い周防(現在の山口県)

の大内家当主が、陶隆房(すえはるかた)の謀反により亡くなります。

宗麟は陶隆房から大内家の新当主を立ててほしいと要請を受けると、

弟を送り、大内家の新当主に据えます。

弟を大内家新当主に据えた事で、周防に近い九州の豊前・筑後の国人や豪族達が、

大友家に臣従してきたことで二国を苦労せず版図に加えます。

こうして一気に勢力拡大に成功します。

その後形だけの室町幕府に莫大なお金を献金し、九州探題に任命されます。

九州探題とは九州全域の統治権を持った地位です。

こうして名実とも九州の覇者になります。

 

九州最大の勢力になっていた時の龍造寺隆信は何をしていたの?

 

 

大友家が九州最大の勢力となっていた時、龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)

はどうしていたのでしょうか。

隆信は大友家が勢力を伸ばしていた時、領地であった肥前を家臣達の謀反により

追い出され、筑後に逃亡しておりました。

筑後には龍造寺家再興に協力してくれた恩人蒲池鑑盛(かまちあきもり)が

柳川城におりました。

隆信は鑑盛を頼り、龍造寺家当主に返り咲くため力を蓄えておりました。

 

大友家が勢力拡大した時の島津義久は何をしていたの?

 

 

さて三国志の蜀に当たる島津義久(しまづよしひさ)は、

大友家が九州の覇者の地位を確立した時何をしていたのでしょうか。

義久は初陣を果たした後、父貴久(たかひさ)と共に、

薩摩(さつま)統一に向けて邁進しておりました。

義久が初陣を果たした時、薩摩は豪族達が割拠し、国内は分裂。

そのため貴久は嫡男義久と共に各地の豪族達の討伐に明け暮れておりました。

薩摩が統一されるのは義久が初陣を果たしてから、16年後になります。

 

大友家に立ちはだかる巨大な壁

 

 

宗麟は九州探題に任命され、名実ともに九州の覇者に近づきます。

しかし宗麟の前に大きな壁が立ちふさがります。

その壁は毛利家です。

毛利家は陶隆房(すえたかふさ)を厳島の戦いで討ち取った後、

旧大内領を吸収。

こうして中国の覇者たる地位を着実に固めていく毛利家当主

毛利元就(もうりもとなり)は、九州地方に侵攻を開始。

毛利家は小早川隆景(こばやかわたかかげ)に軍勢を与え、

周防から船を出して長門海峡を越え、九州に上陸。

その後豊前の門司城(もんじじょう)を陥落させ、

この地を拠点に毛利軍は九州侵攻を始めます。

大友家は毛利家を九州地方から追い出すため、

立花道雪(たちばなどうせつ)をはじめとする諸将に軍勢を与え出陣させます。

 

北九州の覇権をかけた門司城の戦い

 

大友家の総大将である道雪は、毛利軍と柳ヶ浦(やなぎがうら)で開戦。

道雪は柳ヶ浦で毛利軍を完膚なきまで叩き、門司城の奪還に成功します。

毛利軍は一時撤退するも、すぐに大軍を引き連れて再来し、

大友軍が去った門司城を占領。

こうして大友家と毛利家による門司城攻防戦が始まります。

この戦いは7年もの間繰り広げられ、最大の戦いは第4次門司城攻防戦です。

第4次門司城攻防戦では宗麟自ら大軍を率いて門司城を包囲。

毛利家は元就の嫡男・毛利隆元(もうりたかもと)を総大将に小早川隆景を

副将に据え、大軍をもって援軍に向かわせます。

宗麟は門司城を包囲すると火の出るような凄まじい猛攻をかけます。

 

小早川隆景の軍略が冴えわたる

 

 

隆景は門司城が大友家の猛攻にさらされている事を知ると、

門司城に援軍を差し向けず、水軍を使って大友家の領地である

筑前・豊前の沿岸を攻撃させ、大友軍の背後に上陸させます。

大友軍の背後に周り込んだ毛利軍は、大友軍の本陣めがけて猛攻を開始。

宗麟率いる本陣は毛利軍の猛攻を受け撤退。

宗麟の本陣が撤退したことを知った門司城包囲軍も包囲を解いて撤退します。

毛利軍は大友軍撤退の知らせを受けると猛追撃し、大勝利を得ます。

 

大友家の逆襲

 

 

大友家は小早川隆景の知略に敗れた後、態勢を立て直し、

再び門司城へ向けて進軍を開始。

大友家は門司城に着くと再び攻撃を開始すると共に、

門司城付近に陣を敷いている毛利家の軍勢に対しても猛攻をかけます。

立花道雪は毛利軍へ800人以上の弓兵による斉射を行い、

他の諸将も道雪に続いて猛攻をかけます。

門司城の付近に陣取っている毛利軍に大損害を与えることに成功しますが、

城を落とすことはできませんでした。

 

毛利家との和解

 

 

元就は中国地方の大大名である尼子家との戦に決着をつけ、

中国地方の覇者たる地位を確立させるため、

室町幕府の将軍である足利義輝(あしかがよしてる)に斡旋して、

大友家との和睦を図ります。

大友家は毛利家との戦いで疲弊していたことともあり、

かなり不利な条件で毛利家との和睦に応じます。

こうして長きにわたる毛利家との戦いは和睦が成立した事で、終焉を迎えます。

しかし大友家が失った物は大きく、

北九州の拠点であった門司城は大友家の元を離れ、毛利家の所有となります。

 

次回記事:【九州三国志】『三國志』は中国だけじゃない!日本の三国志事情 Part.2

 

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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