劉備はそのカリスマ性によって人を引きつけておりました。
この兄弟によって役割を分担するのは三国志の正解だけではなく、
戦国時代にもありました。
有名なのは戦国時代の薩摩(さつま=今の鹿児島県)を領地としていた島津家です。
島津家は四人兄弟で長男義久(よしひさ)・次男義弘(よしひろ)・三男歳久(としひさ)・
四男家久(いえひさ)です。
長男と三男が内政や外交など国の内面を担当し、
戦術や戦略面では義弘と家久が受け持っておりました。
今回は島津の武を担当していた島津家久(しまづいえひさ)についてご紹介しましょう。
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島津家の四男として生まれる
島津家久は島津貴久(たかひさ)の四男として誕生。
青年期の家久をみた爺ちゃんから「お前は将来有望な戦術家になるだろう。」と予言されます。
この言葉は後にぴったりとあたっていることになります。
その後家久は初陣を果たした際、
敵将の首を槍で突き殺し若干15歳にして手柄を立てることに成功します。
ヒューマンハンターのプロ・家久くんの釣果1:沖田畷の戦い
家久は島津家の悲願である三州統一戦では大いに活躍。
さらに大友軍との九州の覇権をかけた耳川(みみがわ)の戦いでも活躍し、
彼の名前は九州全土の轟きます。
しかし彼の名前が一躍有名になったのは肥前のくまさん・龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)
との戦いでしょう。
家久は島津軍を引き連れて島原半島に割拠している有馬氏が、
龍造寺家の大軍に攻撃されていることを知り、急いで救援へ向かいます。
この時家久が率いていた軍勢は5000~6000人ほどと言われております。
対する龍造寺軍の兵力は50000人ほどと言われており、虚飾が施されていそうですが、
数万の軍勢を率いていたのは間違えないでしょう。
島津の武を担当している家久は耳川の戦いで使った釣り野伏せという必殺の戦法を使って
龍造寺軍を撃破。
この時釣り野伏せに食いついた武将は竜造寺当主である隆信と
龍造寺四天王と言われる大将らを討ち取る大戦果ならぬ大釣果を挙げ大量でした。
この龍造寺VS島津の戦いを沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)といいます。
この戦いによって家久の名前が九州全土に知れ渡ることになります。
ヒューマンハンターのプロ・家久くんの釣果その2:戸次川の戦い
島津家は沖田畷の戦いで大勝利を収めた後、
九州全土を統一するべく戦いを繰り広げていきます。
義弘と家久が島津軍を率いて九州全土を暴れまわっている中、
天下の大軍を引き連れて豊臣秀吉が九州征伐を行うとの噂が入ってきます。
島津軍は豊臣軍の攻撃が始まる前に九州地方を統一するべく、
島津家に抵抗する各大名へ激しい攻撃を行っていきます。
そんな中、豊臣軍の一番隊とも言うべき軍隊が四国から九州の豊後(現在の大分県)へ
乗り込んできます。
島津家は四国軍を豊後の戸次川に陣を張って待ち構えます。
四国軍は島津軍を打ち破るべく戸次川を乗り越えて攻撃を開始。
家久は豊臣軍の猛攻を受けて退却を開始します。
しかしこの退却は家久が釣り場に案内するための偽の退却で、豊臣軍が釣り場に到着すると
家久は必殺の釣り野伏せの戦法を発動。
この攻撃によって豊臣軍は崩壊して四国軍は九州地方へ退却することになります。
この戦いの家久くんの釣果は長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の嫡男である信親(のぶちか)、
四国の名家・十河家の当主である十河存保(そごうまさやす)を討ち取る大戦果もとい釣果でした。
こうして大活躍した家久ですが、豊臣の本軍攻撃によって島津軍は大敗北して、
豊臣家に降伏することになるのです。
戦国史ライター黒田廉のひとりごと
家久は釣りが好きだったかどうか知りませんが、大将首を狙い定めて釣ることに関しては
日本で一番の戦果(釣果)を挙げた武将ではないでしょうか。
これほどまでに活躍した家久を恐れた秀吉の次男である豊臣秀長(とよとみひでなが)は
家久をもてなした後に毒殺してしまったそうです。
しかしこの家久毒殺説は確たる証拠がないので本当かどうかはわかりませんが、
これほどまでに活躍した武将を豊臣家が恐れていたのは間違えないと思います。
なぜなら火がないところから煙は立ちませんから。
「今回の戦国時代のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃあまたにゃ~」
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