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【井伊直虎の細腕城主一代記】婚期を逃した戦国女の意地とプライド

2017年1月8日


 

おんな城主 直虎

2017年のNHK大河ドラマは、「おんな城主 直虎」です。直虎こと、井伊直虎(いい・なおとら)は女性でありながら1565年、井伊家の事情により井伊谷城を相続、その後17年間に渡り城主として君臨し、徳川四天(とくがわしてんのう)の井伊家の土台を造り上げました。しかし、そんな直虎の人生は波乱万丈、いつの間にか許婚者(いいなづけ)は、他所の女性と結婚しているし、自分は出家させられるし、井伊家の重鎮は続々と死んでしまい、やむなく城主になる羽目になるなど散々でした。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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1536年頃、遠江井伊谷の国人領主、井伊直盛の娘として誕生

 

井伊直虎は、1536年頃、遠江(とうとうみ)の井伊谷の国人領主井伊直盛(なおもり)の娘として誕生します。国人領主というのは、土着の豪族の事で戦国の世では武装して領地を守り守護大名の支配に抵抗したり、逆に守護大名の家臣として戦争に参加したりしていました。井伊直盛の時代の井伊氏は、井伊谷を領有するだけの弱小豪族で、戦国大名の今川家に従属していましたが、周辺の戦国大名や守護大名の様子を見て、綱渡りを続ける厳しい存在でした。

 

男子に恵まれない直盛は、直虎と従兄弟の直親を縁組させようとするが・・

 

直虎が出来たものの、男子に恵まれない直盛は、従兄弟の亀之丞(かめのじょう:井伊直親(なおちか))と直虎を結婚させて井伊家を継がせようとします。時に1544年頃ですから、直虎は僅か8歳でした。しかし、それを面白くなく思うヤツがいました家老の小野政直(おの・まさなお)です。そこで、小野政直は縁談をぶち壊しにするべく、今川義元(いまがわ・よしもと)に、井伊直満(なおみつ)と井伊直義(なおよし)が謀反を企んでいると讒言します。それを信じた義元は、両者を駿府まで呼び、その場で自害を命じました。自害させられた井伊直満は、直虎の許婚者の亀之丞の父でした。今川の追っ手が亀之丞にまで危害を加える事を恐れた井伊家は、亀之丞を脱出させ、彼は信濃国まで逃亡しました。こうして、直虎は結婚直前で許婚者に逃げられてしまったのです。

 

直虎、出家して尼になるが許婚者の直親は信濃で結婚していた!

 

讒言のせいとはいえ、夫になる筈の亀之丞が信濃に逃亡してしまった為に直虎は行かず後家になり、龍潭寺(りゅうたんじ)で髪を降ろして出家し次郎法師(じろうほうし)と名乗ります。まだ10歳にもならないのに尼さんとは悲しい話です。それでも、亀之丞が死んだわけではない以上は、復縁の可能性もあったのですが、当の亀之丞は信濃国で奥山親朝(おくやま・ちかとも)の娘を妻にしていました。

 

OH!大ショック、今まで亀之丞を待ち、尼にまでなった直虎の立場は・・

 

1555年、亀之丞、井伊直親は、無事に疑いが解け今川家に帰参し、約束通り、井伊直盛の後継者になります。

 

井伊家を襲う不幸、直盛、直親が相次いで死ぬ!

 

それは、それでいいですが、直虎の出番は全くありません。このまま、一介の尼で人生を終わるのかと考えていた直虎ですが、直虎の激動の人生は、ここから始まります。1560年、海道一の弓取りと言われた今川義元は、3万の軍勢を率いて京都へと上洛を開始します。その軍勢には直虎の父であり当主の井伊直盛も参加していました。そして、戦国史に残る奇襲、桶狭間(おけはざま)の戦いが発生!今川軍、3万は僅か3000の織田信長(おだ・のぶなが)に破れ、義元は首を討たれたのです。この混戦で直虎の父、井伊直盛は戦死してしまいました。

 

かつての直虎の許婚者、井伊直親も讒言で殺害される・・

 

悲しみに暮れる井伊家ですが、当主は、井伊直親が継ぎ、さらに翌年の1561年、跡継ぎである虎松(とらまつ:後の井伊直政(なおまさ))も産まれます。ここから巻きなおすかと思われた井伊家ですが、そこに再び家老の小野家が立ち塞がります。小野政直の後を継いだ、小野道好(みちよし)は、本家である井伊家を乗っ取ろうと暗躍し、直親が最近、今川家から自立の道を歩み出した徳川家康(とくがわ・いえやす)と関係を深めて、今川家から離脱しようとしている証拠を掴みます。道好は、喜び勇んで密書を今川氏真(いまがわ・うじざね)に届けました。氏真は、今川義元の跡を継いだ大名ですが、無能な蹴鞠野郎として戦国ファンには定評がある男です。

 

激怒した氏真は、軍を起して井伊谷城を踏みつぶそうとします。そうなっては、井伊家が無くなると顔面蒼白の井伊直親は、申し開きをする為に、単身で駿府(すんぷ)に向かいますが、途中の掛川で今川の重臣、朝比奈泰朝(あさひな・やすとも)に斬殺されました。

 

ああ、なんたる無残、申し開きの場さえ与えられない、使い捨ての弱小豪族の悲しみが伝わります・・

 

悲しみを乗り越えて、女城主、井伊直虎誕生

 

小野道好は、氏真の命令で、さらに産まれたばかりの虎松の命まで取ろうとしますが、ここは、直虎の母の祐椿尼(ゆうちんに)の兄の新野親矩(にいの・ちかのり)が必死で庇った為に許されました。しかし、悲しみは続きます、直虎の曽祖父である井伊直平(なおひら)が1563年今川氏に背いた天野氏の居城を攻めている最中に85歳で病死、、翌、1564年には、井伊家を支えていた重臣の中野直由(なかのなおよし)そして、赤ん坊の虎松を命がけで庇った新野親矩が今川軍の援軍として最前線で引間(ひくま)城(現浜松城)に徳川家康を攻めて戦死しました。これにより井伊家の重臣は激減し、小野道好に危害を加えられる事を恐れた龍潭寺の住職、南渓瑞聞(なんけい・ずいぶん)により後継者の虎松は鳳来(ほうらい)寺に移されます。こうして、井伊家を支える人々がいなくなった中で、たった一人生き残った次郎法師が1565年、還俗(げんぞく)して井伊直虎と名乗り井伊氏の当主となったのです。まだ4歳の虎松が成人するまで、直虎には井伊家の運命が託される事になりました。

 

僅か3年で小野通好に井伊谷城を奪われる

 

直虎は、井伊谷の領国経営を開始しますが、今川家をバックに、政治に介入しようとする家老の小野通好に苦しめられます。1568年、今川義元を失い弱体化した駿河に甲斐(かい)の武田信玄(たけだ・しんげん)が攻めよせます。この時、今川氏真は、小野通好に命じて、井伊谷の井伊家を滅ぼして、お前が井伊谷城主になり、井伊家の総力で今川家に加勢せよと命じます。こうして、今川の力を背景に小野通好は、井伊谷城を奪い、直虎や虎松、祐椿尼は、井伊家の菩提寺の龍潭寺に入って、難を逃れますが必死に守って来た井伊谷城を失い、直虎は意気消沈します。

 

徳川家康が直虎に加勢し、井伊谷城を奪い返す

 

しかし、捨てる神あれば、拾う神ありです。勢力を遠江に伸ばそうとしていた徳川家康は、直虎に加勢し、近藤康用(こんどう・やすもち)、鈴木重時(すずき・しげとき)、菅沼忠久(すがぬま・ただひさ)の井伊谷三人衆を派遣して、再度、井伊谷城を小野通好から奪い返しました。道好は城から逃れたものの捕えられました。直虎は、直親への讒言に始まる通好の悪行を連ねて、家康に死罪を嘆願します。よほど憎んでいたのでしょう、まぁ無理もありません。こうして、井伊家を苦しめてきた通好は、二人の息子共々刑場の露と消えます。

 

少年ジャンプ方式か?さらに強大な武田氏に城を奪われる

 

ところが、これで一件落着とはなりませんでした。1572年、信濃から戦国最強の騎馬軍団を擁する武田信玄の軍勢が、上洛の為に遠江にやってきたのです。今川の次は武田、まさに、次から次に強敵が出てきてインフレになるジャンプ方式ですが、武田軍4万人に対して徳川勢は2万人と半分程度でした。こうして徳川の援軍が期待できないまま、井伊谷城は、武田軍の山県昌県(やまがた・まさかげ)に明け渡す事になります。直虎は、浜松城に逃げ、家康は三方ヶ原の戦いなどで敗戦、全く、良い事が無い状態でしたが、ここで武田信玄が病気により急死、武田勢は甲斐に引き上げざるをえなくなり、井伊谷城も解放されました。

 

甥の井伊直政を養育し、1582年に死去

 

武田氏の脅威から解放されると、井伊家は徳川との結びつきを強めます。直虎は、自身から見ると甥に当たる虎松を養子として育て、1575年には、15歳になった虎松を徳川家の家臣として出仕させます。彼こそが徳川家の家中で武功第一と言われた徳川四天王、井伊直政です。1565年より、二度の落城を経験しながら、挫けずに井伊家を守り甥の直政に家督を繋いだ井伊直虎は、1582年、46歳頃にその波乱に満ちた人生の幕を閉じました。

 

戦国ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

女城主直虎は、これまでの戦国モノと違い、弱小国が敵を倒して大きくなるというサクセスストーリーではありません。大国に挟まれた弱小豪族が、それでも必死に生き延びる道を探そうと頑張り続ける、ある種地味な物語です。それだけに女城主直虎を演じる柴崎コウさんや、周辺の人々にいかに感情移入できるかが、楽しく視聴できるかどうかのポイントになるのではないかと思います。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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