陸遜の死後、一族はどうなったの?呉の滅亡後、晋の散騎常侍に仕えた一族達

2017年1月8日


 

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陸遜

 

呉郡の四姓、陸氏に生まれながら傍流である為に無名だった、

名将、陸遜伯言(りくそん・はくげん)

しかし、卓越した戦略眼で南郡において呂蒙(りょもう)と協力して

関羽(かんう)を破り、さらに復讐に燃える劉備(りゅうび)を夷陵の戦いで

完膚なきまでに打ち破った事で、陸遜は呉の重鎮の仲間入りを果たしました。

その後は正直すぎる性格が災いし、後継者問題で孫権(そんけん)の不興を買って、

問責の手紙を多量に送られ悔しさから憤死する事になります。

では、彼の子孫は、その後どうなったのでしょう。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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陸遜には、二人の息子がいたが長子は若死に

陸遜

 

陸遜が西暦245年、64歳で死去すると、

その家督は次男の陸抗(りくこう)に継承されました。

陸遜には陸延(りくえん)という長男がいましたが若死にしています。

 

20歳で家督を継いだ陸抗は、父に劣らぬ名将でした。

孫権は、まだ陸遜に対する不信を解いておらず、

陸抗にも、二十カ条にも及ぶ疑念をぶつけて責めましたが、

慎重で思慮深い陸抗は、この疑念をすべて解消します。

 

孫権は、自らが誤っていた事を知り、涙ながらに陸抗に

父への無礼を詫び、以前、自分が送った手紙は、

すべて燃やして欲しいと頼んだそうです。

 

諸葛誕

 

陸抗は西暦257年の諸葛誕の乱では呉に降ろうとした諸葛誕(しょかつたん)

救援しつつ、魏の将軍を打ち破った功積で征北将軍になり、

孫休(そんきゅう)の時代には、西陵の関羽瀬から白帝城までの

対魏国境地帯の守備を任され鎮東将軍・仮節に任命されます

 

西暦272年には、西陵督の歩闡(ほせん)が叛いて晋に寝返り、西陵の戦いが

起きますが、晋の車騎将軍の羊祜(ようこ)が、その隙を突いて

江陵を陥れようとした時にも、慎重に事態に対応し、歩闡を破り羊祜も

撤退させる事に成功しています。

 

陸抗は大司馬まで昇進しましたが、手柄を誇る事もなかったので

士卒の大きな尊敬を集めたと言います。

そして西暦274年、呉の将来を憂いながら48歳で死去しました。

 



陸抗の死後、その軍勢は息子達で分割される・・

陸雲03

 

陸抗には、六名の男子がいました、家督は長男の陸晏(りくあん)が継ぎますが、

その軍勢は、弟の陸景(りくけい)、陸玄(りくげん)、陸機(りくき)、

陸雲(りくうん)、に分割されます。

 

陸晏は、脾将軍、夷道監となりますが、危機は突然やってきます。

西暦280年、西晋の司馬炎(しばえん)は大軍を送りこんで呉討伐を開始。

陸晏は、陸景、虞忠(ぐちゅう)と共に、西晋の討伐軍の王濬(おうしゅん)と

戦いますが、勝てず弟、陸景と共に戦死してしまいました。

子供の記録はないので、ここで陸遜の嫡流は絶えた事になります。

 

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いわずと知れた元祖モーオタ、陸機

 

陸機(りくき)は、陸抗の四男であり、陸遜の孫にあたります。

身の丈七尺で鐘のような大声を持ち、威圧的でリーダーシップがあり

あまり親しまれませんでしたが、常に集団の中心的役割を果たしました。

彼も、西暦280年の西晋の呉侵略に19歳の若さで軍を率いて参戦しますが、

力及ばず、呉は滅亡、陸機は栄達を棄てて、故郷に引き籠ります。

 

しかし、西晋の度重なる招聘で、30歳にして洛陽に上りました。

弟、陸雲(りくうん)と並んで文才はすでに西晋にまで聞こえていて、

晋の張華(ちょうか)は、呉討伐の一番の成果は、陸機・陸雲を得た事であると

評価しています。

 

※洛陽に昇った陸機は、そこで、旧敵程度の認識でしかなかった曹操(そうそう)の

偉大さを知り、尊敬するあまりに、曹操使用済みの金の爪楊枝などをパクって、

弟、陸雲に送るなど、度を越したモーオタ(曹操孟徳オタク)になった

という事実は、ここでご確認下さい↓

 

 

ところが文才の誉れ高い陸機は、晋の人士の妬みを買いました。

西暦303年、八王の乱に巻き込まれた彼は讒言を受けて罪に落され、

弟、陸雲、陸耽(りくたん)、さらに二人の息子、陸蔚(りくうつ)と

陸夏(りくか)までもが連座で同罪となり、ここで陸遜の家系は

完全に絶えてしまうのです。

 

情け深い、陸遜の弟、陸瑁

 

陸遜には、陸瑁(りくぼう)という弟がいました。

性格は情け深く、貧しいけども志の高い人物を積極的に支援しています。

同郷の徐原(じょげん)という人が死ぬと、一面識もない陸瑁に妻子の面倒を頼みます。

それでも陸瑁は断らず彼の為に墓を造り、残された子弟に教育を施しました。

また、陸氏の宗族である陸積(りくせき)が早死にすると、

幼い子女を引き取って育て、成人してから陸積の後を継がせています。

 

そのような立派な人である事から、推挙する人は絶えず、

役所も何度も召抱えようとしますが、陸瑁はいつも断っていました。

 

しかし西暦232年、甥の顧承(こしょう)と孫権(そんけん)から

直々に招聘を受けると、断り切れず、ついに出仕し議郎・選曹尚書に就任します。

 

陸瑁は、孫権が遼東の公孫淵(こうそんえん)に騙された時に、

孫権が立腹して遼東を征伐しようとするのを二度に渡って

理路整然と諫言して孫権を諦めさせるなど、情勢を読む目がありました。

 

陸瑁は西暦237年、兄、陸遜に先立ち病死します。

彼には子供が五人いて、知られているのは陸喜(りくき)と陸英(りくえい)です。

陸瑁の家督は次男といわれる陸喜が継ぎます。

 

名声があった陸喜、呉の滅亡後、晋に仕えて散騎常侍へ

 

陸喜は博覧強記で、人物との交際を好む、明るい性格でした。

父の死後、選曹尚書、吏部尚書を歴任しています。

しかし、西暦280年、呉は西晋の侵攻を受けて呉帝孫皓(そんこう)は降伏。

陸喜は、当初、西晋に仕える事を潔しとせず、在野に降りました。

 

ですが、西晋の司馬炎は、広く天下から賢才を招く方針から、

呉の在野に降った人々にも何度も招聘を行い、それにより、

陸雲、陸機のように西晋に仕える旧呉臣も登場し、

陸喜も出仕して、散騎常侍という高い地位に抜擢されますが、

ほどなく病死してしまいます。

 

家督は息子の陸育(りくいく)が継ぎました。

 

あまり事蹟が分らない陸育・・

 

陸育の事はよく分りません、呉の滅亡後に、晋に仕え、

尚書郎になり弋陽(かくよう)太守になったという記録があるだけです。

子孫の事も分っていません。

 

三国志ライターkawasuoの独り言

kawauso 三国志

 

陸遜の一族や陸氏には、その子孫の記録が比較的に多く残っています。

その最たる理由は、陸遜ばかりではなく、優秀な人材が多く出たという

事情につきると言えるでしょう。

 

上に掲げた人物以外にも東晋で出世した陸氏は何名も出ていますが、

あまりに三国志と時代が違うので敢えて取り上げませんでした。

また、項を改めて語る事はあるかも知れません。

 

本日も三国志の話題をご馳走様・・

 

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陸遜特集

 

 

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