三国志の幕開けとなる黄巾の乱。
この宗教反乱は太平道と言われる宗教団体が各地で民衆をかき集めて起こした反乱です。
しかしどうしてこの世間的にはほとんど無名である太平道と言う怪しげな宗教団体に
民衆達は参加したのでしょうか。
ここでは太平道がどうしてあんなにも多くの民衆を集めることができたのかについて、
レンの考察を交えながら考えてみたいと思います。
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この記事の目次
太平道が多くの民衆を集めることができた理由その1:「病気を治すことができる」と宣伝
太平道のトップである張角(ちょうかく)は道教をもとにして新しい宗教である太平道を設立します。
この太平道はどのような宗教団体だったのかについて着目してみました。
太平道は多くの巫女を各地へ派遣。
そして巫女たちは各地で「民衆の間に広まっていた病を感知させることができる」と
言うことを宣伝しながら練り歩いたそうです。
当時の中国では重税に喘いでおり、
医術を学んでいる先生の元へ通うほどのお金を持っておりませんでした。
そこに無料で病を治すことができるかも知れない太平道の宣伝を知った民衆がやってくると
巫女たちにお願いして病を見てもらいます。
全員が治ったわけではないと思うのですが、
ある程度の効果を発揮することに成功したのは間違えないはずです。
でなければ民衆達は太平道を信じることをしないはずですから。
太平道が多くの民衆を集めることができた理由その2:病が治った民衆を勧誘
太平道の巫女たちは民衆達へ「病を無料で治してあげますよ」と
宣伝しながら各地を練り歩いていきます。
民衆は巫女たちに病を治してもらうようにお願いして見てもらいます。
巫女たちに見てもらった民衆達の何割かは病を治してもらうことに成功します。
この時に巫女たちは病を治すことに成功した民衆達へ「太平道に入信しなさい。
さすれば次に病にかかっても治すことが可能でしょう。」と太平道に入るように勧誘します。
実際に病が治った民衆達は太平道に多く参加することになり、
病を治してもらった人の知人などにも太平道の信仰の素晴らしさを伝えて、
太平道に参加する人数は多くなっていたのではないのでしょうか。
現在で言うところのクチコミ方式的な感じでしょうか。
ついでに病が治らなかった民衆達には「太平道を信じる心が薄かったので仕方ありません。」
と言って治すことができない理由にしていたそうです。
太平道が多くの民衆を集めることができた理由その3:世情不安定とスローガン
太平道が巫女たちに命じて各地で民衆の病を治していた頃の後漢王朝は最悪の一言に尽きます。
まずボンクラ皇帝である霊帝(れいてい)は宮殿の庭で官位の売買を配下達に行います。
高い官位を金で購入することができることから、
配下の人々は争って金を集めて官位を買っておりました。
そして高い金を払って買った官位の元手を回収するため役人が行った方法は、
民衆達に重税をかけて回収する方法と部下から賄賂をもらう方法の二つが取られておりました。
民衆達は役人から重税をかけられたことに対しての不満と
政治が改革されずにいつまでも民衆から重税を搾り取っている後漢王朝に対しての
不満を持っておりました。
そんな時太平道のリーダーである張角は太平道の信者達に
「後漢王朝は既に死んでいるから俺らが立ち上がらねばなるまい」と言うスローガンを掲げます
(「蒼天すでに死す。黄天当に立つべし」が本当のスローガンです。
ここではわかりやすいようにレンが勝手に解釈して太平道のスローガンとして掲げております。)。
このスローガンに惹きつけられた信者や外部からこのスローガンを見て参加した民衆達の両方が
合わさってあれほど大規模な反乱が起きたのではないのでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
プチはじ知識
太平道の病の治し方を伝授。
これで明日から君も太平道の巫女になれる・・・・かも
1:9個の節がある杖で巫女が患者に対して呪い(のろいじゃないよ。まじないだよ)を行います。
2:患者に過去の行いに対しての反省をさせます。
3:呪いをかけた水を飲ませる
するとあら不思議病が完璧に治っちゃたそうです。
皆さんもぜひ試してみたください。
治らなくても保証はしませんが・・・・・。
参考文献 中国人物列伝 井波律子著など
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—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—