【秦の次世代を期待された二人】蒙恬と扶蘇の無念な最期

2017年2月6日


 

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キングダム 始皇帝

 

春秋戦国時代の最後を飾る秦・政の時代。

彼は戦国七雄を滅ぼし天下統一を成し遂げます。

彼の配下には以前の春秋戦国時代の名将と言われる白起・楽毅などの将軍はいませんでしたが、

それなりに優れた将軍が多数いました。

秦の国で三代に渡って忠誠を尽くしてきた蒙一族。

彼らの中で一番活躍したのは蒙武と言う武将でしょう。

キングダムでも登場しているあの武将です。

彼は楚を討伐する戦いで、名将項燕(こうえん)を討ち取る功績を挙げ、

息子・蒙恬もそこそこ活躍しておりました。

しかし彼が活躍したのは秦が天下統一を成し遂げた後でした。

そんな彼とコンビを組んだのは始皇帝の長子である扶蘇(ふそ)です。

始皇帝の後継として期待されていた扶蘇と将軍としての力量のある蒙恬

二人は次世代を担う人物として期待されておりましたが、

あることがきっかけで無念の最後を迎える事になるのです。

今回は無念の最後を迎えることになった蒙恬と扶蘇についてご紹介しましょう。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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万里の長城の原型を作る

 

蒙恬は秦が天下統一を果たした時、始皇帝から

「お主に30万兵を与える。この兵をもって北方異民族を討伐してこい」と命じられます。

蒙恬はこの命令を受けて、自ら兵を率いて北方異民族討伐戦へと赴きます。

彼はキングダムでも兵を巧みに指揮して活躍しておりますが、

この異民族討伐戦でも兵を巧妙に指揮して異民族討伐に成功し、

彼らを北方へ追い返します。

その後、蒙恬は一万里以上の長城を築城して、

北方異民族が再び中華に攻撃を仕掛けてこないように防備を固めます。

この長城が完成した後、彼は再び軍を率いて異民族を徹底的に攻撃。

この結果、蒙恬率いる秦軍の強さに異民族は震え上がります。

 



次世代を担うコンビが誕生

蒙恬

 

蒙恬が異民族討伐戦に明け暮れる中始皇帝の長男である扶蘇は、

始皇帝が行った政策に猛反対しておりました。

始皇帝は長男の反対意見を聞いて激怒し、彼を蒙恬のところへ左遷させます。

扶蘇は蒙恬のところにたどり着くと二人は北方異民族の動向をしっかりと見張り、

攻撃を仕掛けてこないように注意を払います。

このふたりが北方に居る間は異民族は長城へ攻撃することはありませんでした。

こうして次世代を担うコンビが誕生することになります。

 

扶蘇自害

趙高 キングダム

 

始皇帝は砂丘で亡くなってしまいます。

始皇帝が亡くなった時、近くにいたのは始皇帝の三男である胡亥(こがい)

宦官の趙高(ちょうこう)、そして丞相の李斯(りし)が一緒でした。

彼らは始皇帝が亡くなるとすぐに首都・咸陽に引き返します。

その後趙高の画策で胡亥が二代目皇帝となることになり、

長子・扶蘇に対して自殺するように偽の手紙を送りつけます。

この使者が扶蘇と蒙恬の元に到着すると扶蘇はすぐに自殺する準備を始めます。

この姿を見た蒙恬は彼の自殺を押しとどめ

「扶蘇様。あなた様は陛下から私が率いる30万もの大軍を監督する職務を任されている。

にも関わらずここで自殺するのは職務放棄にほかなりません。

とりあえず陛下に一度抗議してから自殺しても遅くはありません。」と説得します。

しかし扶蘇は蒙恬の説得に頷かず「父が息子に死ねと申したのだ。

息子としては死なねばなるまい」と蒙恬に伝え、自殺してしまいます。

 

囚われた蒙恬

 

蒙恬は偽の始皇帝からの使者に捕まり、そのまま囚われの身になってしまいます。

しかし蒙恬には弟であり始皇帝の側近となっている蒙毅(もうき)が、

何とかしてくれるはずだと信じておりました。

だが蒙毅も趙高の策謀に嵌ってしまい、既に自殺したあとでした。

そのため蒙恬はいつまでたっても釈放されることなく、牢獄に囚われたままでした。

 

蒙恬の訴え

 

蒙恬はその後も牢獄に囚われたままでした。

首都・咸陽では蒙毅を殺害した後、蒙恬を自殺させるために、

二世皇帝・胡亥の名で勅令を制作。

こうして出来た勅令を蒙恬に見せると彼は使者に

「蒙一族は一族郎党を挙げて秦に忠誠を三代に渡って捧げてきました。

私には30万もの大軍がおりましたのに謀反を行わずに牢獄に入っているのは、

先帝の恩義に報いるためです。

今現在いきなり私がこのような囚われの身になっているのは、

皇帝陛下の近くに讒言を成すものがいるからでしょう。

私は「過ちは正すことができ、諫言は何かを悟らせるためにある。」この言葉を心に刻んで、

この言葉を肝に命じて天下経営に励んでほしいと考えます」

と胡亥に対して不満を漏らすのではなく、死が近づいているにも関わらず、

天下経営の方法について教えます。

この言葉を聞いた使者は「いや。陛下に伝えないから。早く自害しちゃって。」と催促。

蒙恬はこの言葉に怒りを感じるどころか絶望してしまいます。

その後彼は呆然として、目の前に置かれている毒を飲んで亡くなってしまいます。

 

春秋戦国ライター黒田レンの独り言

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史記は蒙恬が死の間際に「私が今の状況に陥ったのは、

長城を一万里作ってしまった時に、地脈を断ってしまったからだ。」

と言ってから毒を飲んでなくなったと記しております。

史記を書いた司馬遷はこの言葉に対して「天下統一直後、人民は荒れ果て疲弊していた。

にも関わらず蒙恬は始皇帝の命令を粛々と受けて、長城建設工事を開始。

そして自分の功績をあげるために行ったこの事業が完成するのだが、

蒙恬が名将なれば始皇帝の命令を拒否して、人民の疲弊を回復することに務めるべきである。

この事を怠った蒙恬は殺害されても仕方がない。決して地脈のせいではないだろう。」と

なかなか厳しい批判を記しております。

「今回の春秋戦国のお話はこれでおしまいにゃ。

次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。

それじゃあまたにゃ~」

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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