春秋戦国時代・秦・前漢のことが記されている史記。
この史記の作者である司馬遷(しばせん)は己の人生の生涯を費やして執筆した大作です。
しかし司馬遷はこの歴史書を手がけている最中ある事件がきっかけで腐刑(男の大事なところを
切られてしまう刑罰)を受けてしまいます。
彼がこの刑罰を受けることになった事件は李陵が匈奴に寝返った事件でした。
李陵(りりょう)と同僚だがそんなに仲は良くなかった
司馬遷は父が亡くなると国家の文章や歴史に携わる
太史令(たいしれい)という職種に任命されます。
この時に李陵も武帝に仕えることになっており、二人は同期でした。
しかし司馬遷は李陵と仲を深めることをせずに一心不乱に職務に邁進していたため、
友人関係を李陵と築くことをしませんでした。
司馬遷から見た李陵
司馬遷は李陵と親しく付き合うことをしませんでしたが、
彼の目から李陵は「信義に厚く、謙虚さを持ち、
自らの命を省みることをしないで国の為に準ずる決意を胸に秘めている」と評価。
司馬遷は李陵を随分高く評価しておりますが、
司馬遷らが武帝に仕えた時は既に軍事を司る将軍の位の中で有能な人材は払拭しており、
当時いた将軍は武帝に阿るような人材ばかりがたくさんいる状態でした。
李陵は武帝の命令で5千ほどの軍勢を率いて匈奴軍を追い払うため戦いを挑みます。
李陵の奮戦は朝廷にも聴こえてくるようになり、武帝や文武百官は大いに盛り上がります。
そんな中、、李陵軍が全滅したとの報告が入ってきます。
この報告を聞いた武帝は大いに落胆したそうです。
司馬遷も彼の敗報を聞いて落胆することになるのですが、
数ヶ月後朝廷に飛び込んできた情報を聞いて驚いてしまいます。
匈奴へ寝返る
朝廷に驚くべき情報が飛び込んできたのは李陵の敗北から数ヶ月が過ぎた時でした。
その内容とは「李陵が匈奴で生きていて、匈奴軍をの将軍として軍を率いている」との内容でした。
この報告を聞いた武帝は顔を真っ赤にして激怒。
すぐに文武百官を招集して会議を開きます。
この会議には一番後ろの方に司馬遷も参加することになります。
彼が参加することになった理由は会議の内容を記録する為でした。
李陵を非難する百官を見て憤慨する
李陵が寝返ったことを知った文武百官は手のひらを返して李陵を責め立てます。
「あんなに武帝に可愛がってもらったのに恩をアダで返す無礼者」とか
「武門の家名である李家に泥を塗った恥さらし」、
「亡くなった李広(りこう)将軍の孫として恥すべき行為」などと李陵を非難する言葉が宮殿内に
広がっていきます。
会議の記録係として座っていた司馬遷は李陵批難の声にイライラしておりました。
そんな彼を見た武帝は司馬遷に声をかけます。
李陵を弁護する司馬遷
武帝は司馬遷が何か言いたそうな顔をしていたので、
「司馬遷よ。意見があれば言うが良い」と発言することが許されます。
すると彼は姿勢を正して文武百官や武帝に向かって
「李陵は少ない兵力をもって匈奴の大軍を幾度となく撃破しており、
この功績は称えるものであった批難することはないと考えます。
また彼は刀折れ、矢が尽きるような状態に陥ったからこそ降伏したはずで、
降伏したことはどうしようもなかったはずです。
また李陵は漢に対しての忠誠心は李広将軍譲りで誰にも負けないでしょう。
その為彼は機会を見計らって匈奴の王を討とうと考えているのではないのでしょうか。」と
李陵を一生懸命弁護します。
だが司馬遷の言葉を聞いた武帝は激怒。
彼に対して「李陵の弁護をして良いなどと朕は行っておらぬ。
すぐにそやつを牢獄へぶち込め」と言って司馬遷を牢屋にぶち込んでしまいます。
そして牢屋にぶち込まれてから数ヶ月後に「腐刑に処す」と命令を受けてしまうのです。
戦国史ライター黒田レンの独り言
司馬遷の腐刑は実は金銭で贖うことができたようです。
しかし司馬遷が任命されていた太史令の給料じゃ罪を贖う金額にとても足りませんでした。
そのため彼は腐刑を受けることになってしまうのですが、
彼が蔵書していた本を売ってしまえばもしかしたら罪を贖うことができたかもしれません。
また友人である任安(じんあん)などから借金をしても良かったのではないのでしょうか。
なぜ司馬遷はこのようなことをしなかったのでしょうか。
友人から金銭を借りるのは迷惑がかかると思っており、
本を売ることは歴史の編纂をする上で非常に大事な資料であった為、
本を売るようなことができなかったのでしょう。
そのため司馬遷は男の大事なところを切断されてしまうのですが、
彼は史記という名著を残すことに成功します。
司馬遷が李陵を弁護することをしなければ腐刑を受けることはなかったはずですが、
彼は自分が高評価した李陵が何もしないで皇帝に阿るような文武百官達が
李陵を避難している姿に我慢ならなかったのと武帝がこれらの文武百官の意見に左右されて、
李陵に間違った刑罰を行うことを阻止するために弁護したのではないかと思うのですが、
実際にはどうだったのでしょうか。
もし司馬遷に会うことができるのであれば聞いてみたいですね。
参考文献 司馬遷史記 西野広祥・藤本幸三訳など
関連記事:三国志は陳寿が綴ったけど、現代日本の歴史教科書は誰が綴っているの?
関連記事:蜀(国家)が滅亡したら蜀の民や国に尽した人はどうなるの?