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【三国志if】もしも劉備が諸葛亮孔明にフラれていたら!?

2017年5月1日


 

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ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく

「ろひもと理穂の三国志・もしもボックス」のコーナーです。

 

人と人の出会いは「縁」や「運命」といった要素も重要になります。

どんなイケメン俳優だって、日本中のすべての女性を口説き落とせるわけではありません。

断られることだって絶対にあるはずです。

「海猿」で有名なあの伊藤英明さんだって、

100人の女性に恋したとしたら1人くらいはイヤですってフラれるはずなんです(たぶん)。

そこで執拗に攻めても上手くいくとは限りません。

逆効果になってストカー扱いされる可能性もあります。

状況によっては、劉備と諸葛亮孔明だって良縁を結べなかったかもしれないのです。

 

自称・皇帝
当記事は、
劉備が諸葛亮にフラレたら三国志はどうなるか?と検索する人にもオススメ♪

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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諸葛亮孔明に野心はあったのか

 

荊州に住んでいた頃の諸葛亮孔明は、

梁父吟を口ずさみながら日々畠を耕す若者でした。

勉強熱心だったのか、地元の名士たちにも顔を知られています。

才能あふれる名士コミュニティです。

その後に劉備に仕えた徐庶や龐統、馬良などの他にも、

司馬徽や龐徳公など他国にも名が広まっている大物もいました。

諸葛亮孔明はこの龐徳公に師事していたといわれています。

諸葛亮孔明に「臥竜」と名付けた人物です。

このときの諸葛亮孔明は、

自分自身を春秋戦国時代のスターである管仲や楽毅になぞらえていたといいますから、

このまま在野の農民で終わる気はさらさらなかったでしょう。

いつか世に出てやる!という野心を持っていたのではないでしょうか。

 

三顧の礼

 

三国志でもかなり有名なフレーズです。

諸葛亮孔明を陣営に迎え入れたい劉備は、徐庶の助言もあって、自ら諸葛亮孔明の自宅を訪れます。

肝心なときに諸葛亮孔明は留守をしており、都合三回も劉備は諸葛亮孔明のもとを訪れています。

これを「三顧の礼」と呼ぶのです。

それだけ期待しており、それだけの扱いを今後もしていくという約束を兼ねています。

本来であれば三顧の礼は、

後漢において三公に就任したことのあるような名士を在野から招く際に行われた最高の礼です。

例えば一度朝廷の政から離れた楊彪を再び呼び戻すようなものです。

そう考えると、無官の若者である諸葛亮孔明に対して、劉備は最大限の評価をしたことになります。

諸葛亮孔明はその待遇にも感激し、劉備に仕えることを決めます。

 

三顧の礼でもフラれるときはフラれる

 

日本でもプロ野球でドラフト指名のときはよく監督や会社代表が選手の自宅に訪れます。

日本ハムが高校を卒業する大谷翔平をドラフト指名したときなど、

球団GMや栗山監督は何度も大谷のもとを訪れて将来の展望を話し、気持ちを揺れ動かしました。

当時、大谷は絶対に日本のプロ野球には進まない。メジャーに挑戦すると公言していたからです。

しかし日本ハム側の三顧の礼が実を結び、日本ハム入団にこぎつけたのです。

でも前年のドラフト会議では一位指名した菅野智之投手に完全にフラれました。

直接交渉を何度もしたからって上手くいくときと、いかないときがあるのです。

つまり三顧の礼はあくまでも礼であって、絶対に相手を口説き落とせるものではないのです。

 

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諸葛亮孔明なしの劉備の陣営でどこまでやれたか

 

三顧の礼が逆効果に働き、

「なんかストーカーっぽいから仕えのイヤだ」って

諸葛亮孔明がなっていたら劉備はどうなっていたのでしょうか。

これまでは群雄が割拠している時代で、どこの勢力も拮抗していましたから

劉備にも逆転の可能性が残されていました。

しかし官渡の戦いで袁紹を破り、河北・中原を制して巨大化した

曹操に対抗する手段はもはや劉備には思いつきませんでした。

曹操軍が南下してきた時点で劉備軍は壊滅しているか、

落ち延びて孫権の客将、または益州の劉璋の客将といったところに落ち着いたのかのどちらかでしょう。

そもそも戦略という概念がこのときの劉備の陣営にはありませんので、

その場しのぎの戦いを繰り広げています。

これではとても一国の主にはなれません。

 

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三国志ライター ろひもと理穂の独り言

 

結論・三顧の礼をしても劉備が諸葛亮孔明にフラれていたら蜀の建国はなかった。

劉備や関羽、張飛は赤壁の戦いで孫権の命じるままいいように先陣を切らされ、

戦場で討ち死にしていたかも。

やっぱり劉備と諸葛亮孔明は「水魚の交わり」なんです。

諸葛亮孔明がいてこその劉備であり、蜀なんですね。

 

皆さんはどうお考えですか。

 

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ろひもと理穂

三国志は北方謙三先生の作品が一番好きです。 自分でも袁術主役で小説を執筆しています。ぜひこちらも気軽に読んでください! 好きな歴史人物: 曹操、蒲生氏郷

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