ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志・そうだ鄴都に行こう!」のコーナーです。
なんときれいな平城京(西暦710年)、なくよウグイス平安京(西暦794年)と、
皆さん学校の歴史の授業で語呂合わせの年代暗記をした記憶があると思います。
納豆(710)食べて平城京かもしれません。
8世紀のお話しですから現代から考えるとかなり昔のことですが、
この平城京や平安京の原点は3世紀の三国志に登場する都です。
今から1800年昔のことになります。
西暦204年に建設され、魏の曹丕が皇帝に即位するまで魏の都とされた冀州の州都・鄴のことです。
今回は左思の「三都の賦」にも登場してくる「鄴都」に触れていきます。
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曹操にとっての都
かつてこの鄴は河北の覇者である袁紹の本拠地でした。
西暦204年に曹操が袁家を追い出し奪い取ります。
そして建設したのが鄴都です。
曹操はその後に勢力を拡大し、魏公、魏王と昇っていきます。
その間、この鄴都は曹家の都でした。
曹操はここから天下の形勢を見つめていたのです。
西暦220年に曹丕が皇帝に即位し、文帝となると、魏の都は洛陽に定められます。
ですから、卑弥呼の使者が朝貢外交のために魏を訪れたときに向かった先は鄴都ではなく洛陽でした。
洛陽は三代目の皇帝明帝によって大規模修正されました。
この鄴都の遺跡は河北省の臨漳県で見つかっています。
6㎢の広さをもつ城郭都市だったことが判明しています。
曹操はここにあの有名な銅雀台を築くのです。
鄴都の規模
鄴都の城郭は東西に約3㎞、南北に約2㎞ありました。
城壁には7門あり、東西に2門、南に3門、北に2門を備えています。
東は建春門、西は重明門、西北に廐門、東北に広徳門、
西南に鳳陽門、南に中陽門、東南に広陽門となっています。
一番近い中陽門と広陽門の距離は約500mほどです。
鄴都の特徴は宮殿が北部に集約されている点です。
北部には徳政殿や文昌殿、後宮の他、外戚居住区である戚里のスペースとなっています。
南は役所と一般居住区となっており、
きれいに分割されているのが、これまでの歴代の都との大きな相違です。
この整備の仕方は、その後の洛陽の都の建設に応用され、長安建設にも受け継がれます。
それを模範にしたのが平城京と平安京です。
平城京と平安京は、曹操が建設した鄴都をモデルにしていることになるのです。
そんなつながりがあったなんて驚きですね。
気になる銅雀台
西北部には楼台が造られました。
宴会に活用されることが多くありましたが、本来の目的は軍事施設で見張り台のようなものでした。
鄴都には「氷井台」「銅雀台」「金虎台」の3つの楼台が築かれています。
ちなみにこの銅雀台に関する詩を曹操は詠んでいます。
呉の二大美女・大喬小喬姉妹をこの銅雀台に囲いたいというものです。
三国志演義に登場する「銅雀台賦」です。
実際に詠んだのは曹植だったそうです。
呉の周瑜はこの詩を耳にして激高して曹操との開戦を決断するというのが、
三国志演義のストーリーです。
時代考証がおかしいのは、銅雀台が完成するのは西暦210年のことであり、
赤壁の戦いの2年後のことになります。
つまりこのシーンはすべてフィクションということになるのです。
羅貫中(らかんちゅう)が杜甫の詩を参考にして付け足した場面ですね。
曹操の悪役ぶりを脚色したというわけです。
あの世でこのことを知ったら曹操も苦笑いでしょう。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
曹操の構築したマイホームである鄴都。
このスタイルは後世に大きな影響を及ぼし、様々な王朝がこの鄴都を参考にしています。
まさに戦国乱世の時代のモデルルームともいえる傑作ですね。
ここでも曹操の天才ぶりが発揮されています。
皆さんはどうお考えですか。
次回記事:何で曹操はあれだけ関羽を愛していたのに配下から逃がしたの?
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