ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志・泣いて馬謖を斬る」のコーナーです。
「泣いて馬謖を斬る」のフレーズがあまりにメジャーなので話題にするのをずっと避けてきましたが、
今回は初めて馬謖(ばしょく)を主役にお話をしていきます。
馬謖を好きか嫌いかと問われると、圧倒的に嫌いと答える人が多いのではないでしょうか。
彼の街亭の敗戦がなければ諸葛亮孔明の第一次北伐はかなりの成果をあげていたからです。
しかも敗戦の理由が自分勝手な判断で命令違反をしたのですから目も当てられません。
日本の戦場でも似たような事例はありますね。
第二次世界大戦時には、無謀なインド侵攻を独断で進めた「インパール作戦」の牟田口司令官や、
「レイテ沖海戦」で独自の判断で反転した栗田司令官も同じような評価を受けています。
大事な局面を任された将であるからこそ期待される一方で、
その期待に応えられない采配を見て周囲には大きな失望感が広がります。
馬氏の五常
荊州の地で評判になっていたのが馬氏の五兄弟です。
五人とも字に常の字を含めていました。
その中でも長男の馬良(ばりょう)、字は季常はもっとも評判が良く、
眉に白毛が多かったことから「馬氏の五常、白眉、もっとも好し」といわれています。
劉備は人材不足もあり、この五兄弟を全員召し抱えようとしましたが、その父親に断られました。
一人だけなら承諾してくれるということなので、二十三歳になる長男の馬良季常を採用しました。
馬良は左将軍掾のポストに就いています。
さらに劉備が荊州を離れることになった際には留守役の関羽の主任参謀に抜擢されています。
間違いなく白眉は優秀だったわけです。
末子、幼常
そんな兄の活躍を聞いて末子の幼常は父親にせがみます。
自分も劉備に仕えて才能を発揮したいと願ったのです。
当時の劉備は益州を平定し、漢中王に即位していました。絶頂のときです。
父親も末子には甘かったのか、幼常の要求に応えます。
こうして五常の末子、馬謖幼常は劉備に仕えることになるのです。
その才能に驚いたのは諸葛亮孔明です。
馬謖は経書、三史、孫子、呉子、六韜などの兵書に精通していましたし、
諸葛亮孔明の問いに即答できるキレも持っていました。
諸葛亮孔明は馬謖を育てるためにエリート教育を施します。
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馬謖の主張
馬謖が南征に向かう諸葛亮孔明にアドバイスをしたことは有名です。
「用兵の道は心を攻めるを上策とする」というものです。南征はこの方向性で成功しました。
いよいよ第一次北伐の際に、魏延が子午道を抜けて長安近郊の郿城攻略を提案します。
ここでも馬謖は口を挟みその危険性を主張しました。魏延の提案は却下されています。
このとき諸葛亮孔明は上庸を囮にし、
本隊は天水郡を迂回し長安へ向かう予定でしたが誰にも明かしてはいません。
しかし予想外の事態が起き、上庸の孟達が司馬懿によって討たれます。
諸葛亮孔明は冷静に対処し、上庸には趙雲が向い敵を引き付け、
子午道には孟獲を向かわせ長安の兵力を割くことに成功します。
後は天水へ本隊を進軍させれば勝敗を決することができるのですが、
そのためにはどうしても固めておかねばならない道がありました。
それが街亭という丘陵の町です。
馬謖は諸葛亮孔明にすがりついて街亭の指揮を任せて欲しいと懇願しました。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
絶対に敵を通さぬように命じられた馬謖でしたが、南に山があることに気が付き、
「高きより低きを攻める」というマニュアルに従って布陣場所を独断で決め、
水源を断たれ敗北します。
重要拠点である街亭はあっさり突破され、占拠されたのです。
諸葛亮孔明はあまりに大事に馬謖を育てすぎ、負ける経験をさせず、
挫折感を味わせなかったために、馬謖は大事な局面で自分の才を過信して大敗しました。
兄である馬良は「幼常には経験というより苦労を知らない」と危ぶんでいたそうですし、
劉備も生前に同じような危惧を抱いていました。
諸葛亮孔明は北伐失敗の責任をとる形で降格し、
敗戦の要因を招いた馬謖を斬りました。
諸葛亮孔明の人を選ぶ判断、馬謖の命令を遂行する判断、
どちらかの判断が正しければ、北伐は成功していたかもしれませんね。
皆さんはどうお考えですか。
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