孔明死後、蜀の政権を担った蔣琬(しょうえん)が亡くなると費禕(ひい)が彼の跡を継いで、
蜀の政権を担うことになります。
彼はとんでもない才能の持ち主で仕事がどんなにいっぱいあってもきっちりと終わらせて、
客と一緒にご飯を食べたり、博打を打ったりしておりました。
蜀の名政治家である董允は費禕の真似をして見た所、
数十日で仕事が溜まってしまいため息をついて
「費禕と俺の能力がこれほどまでにかけ離れているとは思わなかった」とショックを受けてしまいます。
これ程もまでに優秀であった費禕ですが、
ある人物からも非常に高い評価を受けていたことをご存知でしたでしょうか。
費禕に高い評価をしていた人物は孫権です。
もしかしたら彼の高い評価を聞いて孔明は、
彼を宰相にするように遺命を残したのかもしれません。
しかしよく考えると孫権と費禕には一見して接点が無いように思われますが、
実は彼らには接点があったのです。
いつごろ彼らに接点があり、
孫権が費禕をどのように評価してたのかについてご紹介したいと思います。
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孫呉への使者に選ばれる
孔明は諸将を率いて蜀に背いた南蛮を制圧するために出陣。
彼は見事に損害をあまり出すことなく南蛮征伐を完了して帰還してきます。
孔明は費禕を招いて「私の南蛮征伐が終わったことを孫権に知らせてきてくれないか。」と命令。
費禕は孔明の命令を受けて孫呉へ向かうことになります。
孫権に酔わされ、次々と質問攻めにあう
孫権は費禕がやってくると諸将を招いておもてなしを行います。
彼は費禕へガツガツ酒を進ませて酔っ払うまで飲ませ続けます。
そして孫権は費禕が酔っ払ったと見ると自らの自慢の文官である
諸葛恪(しょかつかく)らへ国内の政治に関する質問などを次々と議論を吹っかけてきます。
費禕は彼らへ「酔っ払っているので、ご勘弁くださいませ」と言って退出。
その後彼は孫権や諸葛恪宛に手紙を書いて質問された内容にしっかりと答えたそうです。
この費禕の質問に対する回答を見た孫権は、
唸り声をあげて反論することができなかったそうです。
蜀へ帰る時に費禕へ○○を述べる
孫権は費禕が蜀へ帰還する日になると再度彼を宮殿に読んで引見。
彼は費禕に向かって「こないだの君の回答を読ませてもらった。
まさに非の打ち所のない回答であり、
君は今後蜀の国を背負って立つ人間になるに違いない。
そのため何度も我が国へ来ることができないであろうから、
これが今生の別れになるかもしれないな」と述べ、
彼に自らが佩いていた宝剣を手渡します。
すると費禕は孫権に「私は才能のない人間です。
そのためあなた様からご褒美を貰うわけにはいきません。
お心遣いに感謝致します。
今後はわが蜀と一緒に漢王朝を支えてくださる事を心から願うばかりです。
また孫権様からおもてなしされたことを生涯忘れず、
孫呉に歯向かわないようにしていきたいと思っております。」と感謝の言葉を捧げた後、
蜀へ向けて帰還することになります。
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三国志ライター黒田レンの独り言
孫権の予想通り費禕とはこの会見の後、
蜀の国内で重宝されていき孫呉に来ることはありませんでした。
孔明も費禕の能力の高さを買っており、
自らの死期を悟ると彼は「私が亡くなった後は蔣琬を国政のトップに。
そして蔣琬が亡くなった後は費禕を国政のトップにすれば大丈夫でしょう」と
遺命を残すほどの人物でした。
しかし孔明がこの遺命を残すことになったきっかけはもしかしたら、
孫権から費禕が高く評価されていたことに由来するのかもしれませんね。
蜀や孫呉においてその才能を認められていた費禕。
まさに宰相のとなるべくしてなったと言えるのではないのでしょうか。
参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志蜀書 今鷹真・井波律子著など
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